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  <title>コアラさんのブログ</title>
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  <tagline>カルト化教会した教会脱会後のリハビリ,回復、そして成長へ。</tagline>
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  <copyright>Copyright (c)  NHN Japan Corporation. All rights reserved.</copyright>
  <modified>2009-06-18T17:32:00Z</modified>
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    <title>コアラの引越し！！！完了！！</title>
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      <name>コアラ</name>
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    <modified>2009-06-18T17:32:00Z</modified>
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    <created>2009-06-18T17:32:00Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">ブログの引越し先 
 http://rihabirikoara.jugem.jp/ 
   
   
 クルルが閉鎖されるという事になって、ブログの引越し先を探していましたが、一応、新しく引越しをしてみました。 
   
 タイトルは、今までのまま「コアラさんのブログ」にしました。 
   
 コアラのブログをリンクしてくださっている方には、新しいリンク先のURLに変更をお願いいたします。 
   
 一応、試験的に、引っ越しましたが、他のサーバーに引っ越すのも面倒なので、JUGEMで落ち着こうかと考えています。 
   
 新しいURLでの登録をお願いします。 
   
 コアラのクルルでのブログは、廃止されるまで残しておきます。 
   
 新しい引越し先に、写真と一緒に引越しができませんでした・・・・ 
 それだけが残念・・・・ 
   
 今後とも、コアラのブログをよろしくお願いいたします。</content>
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    <title>これってフラッシュバックじゃないの？</title>
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    <modified>2009-06-16T06:32:02Z</modified>
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    <created>2009-06-16T06:32:02Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">先日、職場で職員同士がこのような会話をしておられるのを耳にしました。 
   
 Aさん「昨日、利用者のBさんが、私はスパイに狙われている」といって、「C職員は実はスパイだ」と言うんだよ。」 
   
 Bさん「そうそう。よく、スパイに狙われてるって言ってるよね」 
   
 Aさん「どうして、そんなふうに思うのかな」 
   
 私は、その話を聞きながら「やっぱり・・・・」って考えていました。 
 でも、新人だし、普段から仕事ができないといっていじめられているので、自分の心配している事を伝えても、また、いじめのネタにされると予想して、何も言いませんでした。 
   
 実は、このご利用者さんは戦争時代に中国共産党でスパイ容疑で逮捕されていた経歴があるのです。私は、その時のPTSDがまだ残っていて、何かが引き金になってフラッシュバックkを起こし、現在と過去との出来事が脳の中で混乱を起こし、「今、スパイされている」と認識をされているのではないかと思いました。 
   
 もし、そうであるなら、そして、そこからリハビリをするには、 
 まず、ご本人がPTSDの自覚をしないといけない、 
 そのためには中国での投獄された経験も思い出さないといけない、 
 そういうリスクを犯してでも、リハビリに取り組むと本人が決意して、 
 適切なカウンセリングが必要になってくる・・・・・ 
   
 でも、現実では、日本ではまだまだPTSD治療は遅れていて、私自身も病院にいったけど、きちんと治療をするためのカウンセリングは受けることができなかったので、 
 病院でケアを求めても、薬を出されて終わり・・・という限界があるのではないかと思います。 
   
 そして、新人の介護技術もままならない私が、そのリハビリのお手伝いなんて、できる立場ではないし、仮に話を聞かせていただいても、過去の記憶を思い出してパニックが起こったときに、 
 それが、治療に必要な過程であるという認識が周囲に理解されず、一方的に非難されそうで、 
 現実的には、この方のPTSDのリハビリのお手伝いはできないなって思います。 
   
 もし、職場自体が、「職員はチームとして働いている」という認識があるところで、 
 「ご利用者様の益になる事はなんでもしよう」という意欲に満ちているなら、 
 私も、安心して意見が言えるのにな～って思いました。 
   
 そして、介護の現場にいて、働かせていただいて、日々思うのは、 
 高齢者への心理的支援が本当に必要だけど、それを介護職員がする余裕は全くないので、 
 別の方向で、心理支援を専門に行う人材が必要だ、という事です。 
   
 地域に密着する「教会」の働きを考える時、 
 その分野で地域貢献と伝道、牧会ができれば、もっと自由に動けるのになあって思いました。 
   
  </content>
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    <title>立ち止まって考える時</title>
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    <modified>2009-06-15T12:30:25Z</modified>
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    <created>2009-06-15T12:30:25Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">最近、仕事での心身の疲れを急激に自覚し始めています。 
   
 介護の職場で働き始めてから、「介護」に関する資格も、基本の学びもしないで飛び込んだので、毎日、意気込みはカルト化教会献身時代のような「意欲」で、必死で仕事を覚え、先輩職員からの嫌がらせも受け止めてきました。 
   
 カルト化時代の献身に比べたら、これくらいなんでもない・・・・・・ 
 カルト化教会の献身に比べたら、いじめや嫌がらせもたいした事ない・・・・ 
 時間をかけて考えて、悩んで、結果的に与えられた職場なのだから、やるしかない・・・ 
 何よりも、自分の人生を考える上で、「介護職」を身につけるのはプラスである・・・・ 
 本当に、やりたいことがあるからこそ、「介護職」のキャリアも大切なんだ・・・・ 
   
 そう思って、がむしゃらに頑張ってきたけど、 
 最近、心身ともに、物凄く疲労が溜まっていることに気がつきました。 
 （子どもの頃から虐待されるのに慣れているので、自分の心身の疲労になかなか気がつかない、まだまだ、境界線が壊れているみたい） 
   
 今の職場で働き始めて、「パニック障害の発作！？」と考えられるような症状もあったけど、 
 「今、やっている事は、本当にやりたいことの土台作りに必要だから、ここで挫折してはいけない！！！！」そう思って、気力で乗り越えました。 
   
 でも、最近、 
 出勤する時に、足がすくむ・・・・・・ 
 時には、吐き気がする・・・・・ 
 めまいがする・・・・・ 
   
 そういう身体症状がある事に気がついて、 
 やっと、立ち止まって考えるようになりました。 
 （無理してる事に気付くのが遅い・・・） 
   
 経済的自立は必要だけど、何も、これほどまでして、この職場にこだわる必要はないのではないだろうか？ 
   
 介護の専門職を身につけるにしても、今の施設でなくてもいいのではないか？ 
 もう少し、ペースを落として資格を身につけるという方法も考えてもいいのではないか？ 
   
 とにかく、これだけ身体症状で「拒否反応」が出始めているのだから、 
 今は、自分自身を労わって休めるような選択をしてもいいのではないか？ 
 最低限の経済的必要が満たされるような仕事をとりあえず探して、自分自身に休息を与えるという選択をしてもいいのではないかと考え始めています。 
   
 そうやって立ち止まって考えられるのも、 
 脱会したからこそ、得たものです。 
   
 それまでは、「主が与えてくださった職場なのだから、主が私をそこにおいた理由があるのだから、神様が明確に示してくださらない限り、そこに留まって最善を尽くし続ける事こそが、主への献身である」っていう理解をしていたので、どんなに無理と思っても、そこから出るという選択はなかったけど、 
   
 今は「自分で選択しても、神様への反逆ではない」と理解できるようになったから、 
 立ち止まって考える事もできるのです。 
   
 ただし、現実に「経済的自立」は必然なので、仕事をしないで休息するのは不可能だけど、 
 それでも、バイトでもいいから、もう少し、自分を労わる期間を持ってもいいのではないかって思っています。 
   
 良い職場に恵まれますように・・・・・・ 
 そして、本当にやりたいことに、もっともっと時間を注げますように。 
 私の力ではどうにもできないので、主よ、よろしくお願いします。</content>
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    <title>葛藤</title>
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      <name>コアラ</name>
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    <modified>2009-06-13T15:22:25Z</modified>
    <issued>2009-06-13T15:22:25Z</issued>
    <created>2009-06-13T15:22:25Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">最近、仕事の事で考えの整理が必要だなあって思っています。 
   
 介護の仕事自体は、「業務上過失致死」の加害者に、いつ自分がなってもおかしくない「緊張感」があります。その責任の重さ、現実の現場で職員数が圧倒的に少ない事による仕事の負担の大きさ、時間との戦い・・・・そういう「精神的プレッシャー」はあるものの、 
   
 ご利用者様との「心と心の触れ合い」という面では、嬉しい事が日々あって、 
 「やりがい」のある仕事だと思います。 
   
 一番、頭が痛いのは職員同士の「足の引っ張り合い」や、「いじめ」、「派閥争いに巻き込まれる」というような人間関係です。 
   
 体力をかなり使う仕事で、しかも精神的に疲れるので、休日にはぐったりして、とにかく「眠る事」「充分な休息を得る事」が優先的になります。 
   
 今、仕事をしながら、物凄く葛藤しているのは、 
 「仕事」と「献身」の両立がいつできるようになるのか、見通しがつかないことです。 
 まあ、仕事に着く前から「1年」は仕事を覚えて慣れるのにかかるだろうなあって想定していた事だし、他にもいろいろ考えたら「3年」は、仕事が大変かなあって考えて働き始めたけれど、 
   
 想像以上に、「献身と仕事」の両立が上手くいかなくて、葛藤しています。 
   
 自分の人生を考える時、カルト時代のような「信仰のみで突っ走る」という生活は、もう嫌だと思っています。経済的な自立、ある程度の安定した収入も必要だと思っています。 
   
 今の仕事をしていて、「交代勤務」という不規則な勤務、しかも、自分の都合で連休を取るとか難しい勤務なので、「仕事以外の時間の予定」が自由に使い辛い事にも葛藤を覚えます。 
   
 勤務時間がバラバラ、出勤の曜日もバラバラなので、 
 まず、教会の奉仕をする予定も入れ辛いです。チャペルのメッセージもいつできるか分らない・・・ 
   
 それに、カルト化教会被害者と、定期的に会って、充分時間を使って話をしたいのに、 
 勤務状態によって、時間が作れない時もある・・・・・・・ 
   
 そういうときに、物凄いストレスを覚えます。 
   
 私の人生の優先順位は「隣人に寄り添う事」なのに。 
 しかも、私が深く心に留める「隣人」は、「マインドコントロールをされて心が痛んでおられる方」なのです。 
   
 そして、もちろん、高齢者も心の痛みを抱えておられるので「寄り添う」事が必要だけど、 
 現実問題「介護職」のメインは「寄り添う事」ではない・・・・・という現実。 
   
 それでも、ほんの少しでも「寄り添いたい」と願ってご利用者様のお話に傾聴すると、 
 「仕事をサボっている」とか「生意気」といっていじめられる・・・・・ 
   
 ある程度、仕事を始める前から想像できた事だから、 
 「仕事は仕事！！」とわりきって、業務をすると心に決めていたけど、 
 実際に現場にいると傾聴が必要な方が見えるので、 
 寄り添いたい！！！ 
 でも、寄り添えない！！！！ 
 というストレスがかなり大きいというのは、想定外でした。 
 もっと、業務は業務として、割り切れるだろうって自分では思っていました。 
   
 自分の人生で何を大切にしたいのか？ 
 その優先順位を考えて、 
   
 お金の為の人生なのか？ 
 人生の為のお金なのか？ 
 を考えて、 
   
 悩んで、悩んで、悩んでいます。 
   
 人生の優先順位、それは私にとって「献身」です。 
 献身して、何をしたいのか、具体的に見えている部分があります。 
   
 でも、もう二度と、カルト化教会時代のような「ただ信仰によって」という生活ではなく、 
 ある程度、安定した生活も望んでいます 。友達との付き合いで、ファーストフードのセットを注文したら、内心は「今月、どうやって生きていったらいいのだろう・・・・」って青くなるような生活、 
   
 パンの耳をゲットして、カビの部分を取り除いて食べる生活・・・・・ 
   
 あんな生活には戻りたくないのです。 
   
 病気になっても、お金がないから病院に行けないとか、 
 友達の冠婚葬祭でも、お金がなくて、何もできないとか、 
   
 あんな生活には戻りたくないのです。 
   
 公園の鳩を見て、「あれ、食べたら、美味しいかな～」って想像するような生活、 
 線路の脇の雑草を見て、「これ、食べても安全かなあ」って思う生活。 
   
 あんな生活には戻りたくないのです。 
   
 悩んで、悩んで、悩んでいます。 
   
 でも、お金の為の人生なんて嫌だなあって思います。 
   
 悩んで、悩んで、考えて、そのときの状況で精一杯努力して最善と見えるものを選択して、努力して、 
   
 それでも、悩んで分らなくて、あとは神様に祈って、扉がどのように開かれていくのか期待して待つくらいなのかなあ～。 
   
 神様、よろしくお願いします。</content>
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    <title>悪夢</title>
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      <name>コアラ</name>
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    <modified>2009-06-08T18:04:56Z</modified>
    <issued>2009-06-08T18:04:56Z</issued>
    <created>2009-06-08T18:04:56Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">先日、いや～な夢を見て目覚めました。 
   
 それは、カルト化教会所属時代、アメリカでの弟子訓練の夢でした。 
 （そういえば、弟子訓練で受けたマインドコントロールの3段階の整理がまだ途中です・・しかも、まだ第一段階の解凍も終わっていないんですよね～。整理には時間が必要なので、早く、仕事に慣れたいです・・・） 
   
 夢では、弟子訓練のインターンであるJさんが登場しました。 
 Jさんは、ドラマ、ダンス、賛美部門のリーダーで、私と同じ年齢だけど、存在感があって、高圧的雰囲気と、特別優秀な献身者であるという雰囲気が漂っていて、怖くて近づけない方でした。 
   
 彼女のダンスは見事でした。 
 何処かの学校でダンスを専門に学ばれた方です。 
 あらゆる分野のダンスができる方でした。 
   
 夢では、夏のキャンプで、フロアで人が集まっているところにJさんを筆頭にインターンが通りかかる・・・・弟子訓練生、しかも、一番落ちこぼれの私は、怖くて怖くて震え上がっている・・・という夢でした。 
   
 目覚めてから、 
   
 「ああ～。あの時、本当は私は彼女が怖かったのかあ」って気がつきました。 
   
 弟子訓練時代は「雲の上の方」っていう認識をしていましたが、 
 本当は怖かったんだ・・・・って気がつきました。 
   
 あの弟子訓練に比べたら、今の職場のいじめなんて、 
 可愛いもんだよな～と思いましたが、 
   
 やっぱり、それも嫌だという気持ちは変わらないんですよね。 
 せっかく、一日の大半を過ごす職場なのだから、気持ちよく仕事ができたほうがいいのに・・・ 
   
 でも、自分は変えられても他人は変えられないし、 
 人との関係で健全なのは 
   
 I AM OK 
 YOU ARE OK 
   
 という認識なので、 
   
 いじめをするあの先輩職員もOKだ～！！！！！！ 
 そして、私もOKだ～！！！！！！！ 
   
 という認識ができると、精神衛生上いいので、 
 それを、何度も心につぶやきながら出勤しました。 
   
 いざ、仕事が始まると、まだまだ、介護技術が未熟な私は仕事に追われて必死なので、 
 悩む暇もなく、充実した一日が今日も終わりました。 
   
 しかし、カルト化教会時代の夢は、今でもたまに見て、嫌な気持ちになる事があります。 
 Jはまだ、教会の為に踊っているのかな～。 
   
 彼女のダンスのセンスは素晴らしいんだよね。確かに。 
 でも、彼女も2世で、結局は両親からマインドコントロールをされているんだよね。 
 彼女も、教会からほとんど給与をもらっていないのか、それとも優遇されているのか、 
 今となっては分らないままだけど、 
   
 まあ、私もカルトという特殊な経験ができて、 
 今となったら、「人生経験」として、良かったと思えます。 
 あれは、あれで、貴重な経験だ・・・・・ 
   
 もう、二度と嫌だけどね。 
   
 とにかく、自由になって良かったと思います。</content>
  </entry>
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    <title>葛藤</title>
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    <modified>2009-06-06T15:05:54Z</modified>
    <issued>2009-06-06T15:05:54Z</issued>
    <created>2009-06-06T15:05:54Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">介護の仕事をしていると、勤務形態がバラバラ、休日もバラバラで、曜日の感覚が分らなくなってきます・・・・ 
   
 明日は早出勤務です。 
 仕事が定時に終わって、急いで帰宅して、教会に直行しても、教会に着くのは、夜の礼拝が終わって交わりの頃くらいかなあ。それでも、教会に行けたら嬉しいと思います。 
   
 クリスチャンになって、「日曜が休日である事」「礼拝を守れる事」が、仕事を選ぶ上で、最優先で生きてきたけれど、現実に生活をする中で、その条件を満たす仕事に就くことができない状況です。 
   
 介護という職種を選んだ時、それは想定内の出来事で、日曜礼拝を欠席する事がなく、クリスチャン生活を送ってきた私には、大きなチャレンジだったし、礼拝を守らない事への不安もありました。 
   
 「献身」を考えていながら、日曜礼拝を守れない・・・・・ 
   
 いろいろな葛藤があるけれど、この経験も、きっと、いつか役に立つのだろうと思っています。 
   
 でも、クリスチャンでありながら、いろいろな事情で礼拝を守れない方がおられます。 
 病気であったり，高齢であったり、主婦で家族の事情があったり、私のように勤務で礼拝が守れなかったり、その理由は様々でしょう。 
   
 礼拝会を守りたくても守れない・・・・ 
 自分自身が、そういう立場になって、礼拝に来る事ができない方の気持ちを想像するようになりました。 
   
 礼拝会に出席できないもどかしさを覚える時、 
 聖書の時代に、礼拝に出ることができない「羊飼い」という職業に就いていた方を思い出して慰めを受けることがあります。 
   
 羊飼いは、羊の世話の為に礼拝会には出席できなくて、宗教家から見下され差別をされていました。しかし、主イエスの降誕の知らせは、その羊飼いに、真っ先に届けられました。 
   
 主は、本当に「心」を知っておられる方で、「礼拝の心」を持っている人を忘れる事はないのだと慰められます。宗教家は「礼拝出席率」で人の信仰を評価する事もあるでしょうが、神様は、主を礼拝するものを忘れる事も軽蔑する事もなさらないのです。 
   
 明日も勤務です。 
 仕事でいじめられているけれど、主を礼拝する心で、人々に仕える・・・ 
 そういう「礼拝」をして、一日を過ごせたらと願っています。 
   
 いろいろ心に葛藤を覚えます。 
   
 心に、強い願いがあります。 
 主は、その願いをご存知です。 
   
 ただ、今は、葛藤を覚えながら、介護という現場で学ぶ事、考える事、 
 悩む事、痛む事が許されている、そういう時期なのだと思っています。 
   
 明日、教会に顔を出せたらいいなあって思います。</content>
  </entry>
  <entry>
    <title>苦しみの向こう側</title>
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      <name>コアラ</name>
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    <modified>2009-06-04T11:56:49Z</modified>
    <issued>2009-06-04T11:56:49Z</issued>
    <created>2009-06-04T11:56:49Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">箴言１４：２３には「全ての勤労には利益がある」とあります。（新改訳聖書） 
 新共同訳では、「どのような苦労にも利益がある」と訳されています。 
   
 原語を調べてみると、「エトセブ」というヘブル語が使われています。 
   
 その意味は以下のとおりです。 
   
 pain, hurt, toil, sorrow, labour, hardship  pain  hurt, offense  toil, hardship  vessel, creation, object  (TWOT) idol  
 （こちらのサイトで検索できます。 http://www.biblestudytools.com/Lexicons/Hebrew/heb.cgi?number=06089 &amp; version=kjv ） 
   
 つまり、痛み、苦労、悲しみ、困難という意味もある言葉です。 
   
 「勤労」という日本語を国語辞典で調べると、「勤め働く事」（三省堂） 
 (1)心身を働かせて仕事に励むこと。（goo辞書）とあります。 
 ですから、新改訳聖書だけで読むと、この箇所から「苦労」という言葉は関連して考えられないと思います。 
   
 原語から考えてみると、全ての（痛み・苦労・悲しみ・困難）という苦労、勤労は、利益があると理解できるのではないでしょうか？ 
   
 そのような聖書の約束は、希望を与えてくれるように思います。 
   
 ある方は、生まれてから、虐待の連続の人生でした。 
 生涯を振り返る時、「どうして、自分だけ、これほど不幸なのか・・・」と希望を失うような苦労がありました。 
   
 その苦労、痛み、悲しみが、それだけで終わるなら本当に悲しい事ですが、 
 もし、それらが、「利益を与えるもの」であるなら、希望に繋がるのではないでしょうか？ 
   
 それは、自分の力で「逆境・苦労を利益に変えろ」と要求されているのではなく、 
 「利益がある」と約束がある、神様がそれを約束してくださっているなら、それを成し遂げてくださるのを期待してもいいのではないかと思います。 
   
 私自身、親から虐待を受けて育ちました。 
 自分で親を選ぶ事はできない、本当に理不尽な事であり、言葉に表現できないような心の痛み、愛情飢餓を経験して成長しました。 
   
 それが「利益になる」なんて、馬鹿げていると考えられるような経験をしました。 
   
 でも、あるとき、気がつきました。 
 自分自身が虐待を受けたからこそ、同じような経験をし、心に痛みを持っておられる方と共感できる・・・そして、虐待の話を互いにするときに、慰めがある、癒しがある・・・・・そして希望が見えてくる・・・・ 
   
 もしかしたら、「利益」とは、自分だけが心地よいとか、自分だけが満足するという種類のものもあるのかもしれないけど、「人を知り、人を生かす材料」のようなものかもしれないなあって思っています。他者に寄り添う事、他者の幸せを喜ぶ事、他者の幸せに、少しでも貢献できること、 
 そういう「利益」をもたらすのかもしれないって考えているこの頃です。 
   
 そして、それは、絶対にお金では与える事ができないことであり、 
 絶対に、お金では買えないものです。 
   
 自分が経験した全ての痛み、苦労、困難、悲しみは、 
 苦労だけでは終わらない、きっと益になる、 
 その約束は素晴らしいものだと思います。 
   
 フランクルのアウシュビッツでの強制収容所での経験さえ、「利益をもたらした」のであるなら、 
 日々の痛み・悲しみ・苦労だって、益になると期待してよいのだと思います。 
   
 苦しみは、苦しみだけで終わらない、 
 苦しみの向こう側がある・・・ 
 その利益をきっと経験できる、 
   
 その希望を持って、それを自分に言い聞かせて、日々、仕事をしています。 
 通過した時に、心から「利益を得たなあ」って実感できるんだろうなあ。 
 その日を楽しみにしています。 
  </content>
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    <title>今日という日</title>
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      <name>コアラ</name>
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    <modified>2009-05-28T03:37:59Z</modified>
    <issued>2009-05-28T03:37:59Z</issued>
    <created>2009-05-28T03:37:59Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">高校生の頃から、クリスチャンになって教会に通っていると、「突然の召天式」という出来事に度々直面する事があります。 
   
 「長い間の闘病生活での死」である場合は、なんとなく前もって死期を予想できますが、突然の事故、病死、自殺・・・そういう時は、「まさか！あの元気に話していた方が・・・！？」と衝撃を受けます。 
   
 そうかと思えば、何度も自殺未遂を繰り返しているにも関わらず、どういうわけか、命が助かってしまう方もおられます。 
   
 そして、今、介護の現場で90歳、100歳の方が認知症はありながらも健康で生活しておられる事もあり、また、80歳の若さで、全身麻痺で寝たきりであったり、寝たきりとまでいかなくても、毎日、毎日「お迎え」を切望しておられるにも関わらず、病気に苦しみながら、自分の願っている時に死期を迎える事ができないかたもあります。 
   
 また、ショートステイをご利用の方で、80歳で、かなり自立しておられ、自分で歩けるし、トイレもいけるしお風呂も入れる、そして、気品があって、いつも素敵な笑顔で「ありがとう」とおっしゃってくださる方で、その方が「ショートステイ」から退所されるとき、「またお願いします」とおっしゃられて、お互いに笑顔で次のご利用の際に会えることを楽しみにしていたのに、突然、家で倒れられ、そのまま急死されたという知らせを受けることもあります。 
   
 また、施設内で脳梗塞を起こされて、緊急入院され、「きっと、２～３日中に駄目かもしれないね」と話していた方が、寝たきりという状態でかなりの健康を回復されたという知らせを聞くこともあります。 
   
 人の寿命は、本人でさえもコントロールできない部分があるんだなあって思います。 
   
 そして、私自身も、自分の召される時がいつなのか、全く分りません。 
 100歳まで生きるかもしれないし、もしかしたら、今週にでも急死することもあるかもしれません。 
   
 高校生の頃からクリスチャンになって、突然の「召天式」を何度も経験して、 
 「今日、生かされているという事実」を大切に考えるようになったのではないかと思います。 
   
 カルト化教会所属時代も、あまりの奉仕の過酷さで、「いつ、過労死という殉教をするかわからないなあ」って実感していたし、むしろ、早く「殉教」して楽になりたいって切望していました。そして脱会後、あまりの喪失感で、生きる気力を失い、日々、薬を飲んで、やっと生き延びているような状態でした。早く楽になりたいのに、なかなか、天に召されない・・・という苦しみも経験しました。 
   
 今は、マインドコントロール後遺症からの回復の為のリハビリを通過して、 
 天に召される事を切望して生きるという状態ではないけれど、でも、突然の死がありうるという意識は常にあります。 
   
 だからこそ、「今日」という日は、神様からの貴重なプレゼントだと思っています。 
 泣いて泣いて泣いて、自分が生きている事を恨みながら過ごしても、1日は24時間です。 
 逆に、些細な出来事の中に「宝」を見つけ、「感謝できる事」を思い巡らして過ごしても、「今日」という時間は、1日24時間です。 
   
 「今」という時間、「今日」という時間をどのように過ごすのかによって、 
 「10年後の自分」の人格に違いが出てくると思います。 
   
 自分の過去を振り返った時に「宝」や、「感謝できた事」が心のアルバムに沢山あったら、 
 本当に嬉しいなあって思います。 
   
 不平・不満の材料を毎日の生活で見つけるのは簡単です。 
 悩み・苦しみ・限界・人間関係の汚さ・生活の現実の中で、「感謝できる事」を見つけるには努力が必要な時も多いと思います。 
   
 どのような気持ちで「今日」という日を過ごしても、1日24時間は変わらないし、 
 はっと気がついたら、「今日」という日は、あっというまに過去になって「昨日」とか「一ヶ月前」になっています。 
   
 その日々のアルバムを、不平・不満で満たしていくのか、 
 努力して「感謝できるものを捜す」という「宝探し」を楽しんで、些細な事でも「感謝だなあ」っていう事で心のアルバムを満たしていくのか、 
   
 どちらを選んでも1日は24時間です。 
   
 どちらを選んでも、「今日」という日は、あっという間に過ぎ去ります。 
   
 だからこそ、「今日という日を丁寧に生きる」「今日という日は神様からのプレゼントだと認識して生きる」事は、大切な事だなあって思います。</content>
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    <title>ちょっと、一息・・・・</title>
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    <content type="text/plain" mode="escaped">今日は仕事が終わってから、漫画喫茶に行きました。 
   
 介護職の先輩から介護を題材とした講談社から出版されている漫画「ヘルプマンはいいよ～。」と教えてもらって気になっていたので、久しぶりにゆっくりとドリンクバーを楽しみながらネットカフェで過ごす事にしました。 
   
 コアラのブログを始めた当初は、パソコンを買ったり、ネット環境を整えるお金もなかったので、せっせとネットカフェに通っては「コアラのブログ」を投稿していたものでした～。いつも、ずらっと並んでいる漫画の本には目もくれずに、せっせとコアラのブログを書いていました～。あの頃が懐かしいです。 
   
 今日は、その逆で、ネットには目もくれず、「ヘルプマン」を読みました。 
 １巻を読んだ時、初めて主人公が施設で働いた時の困惑振りと、全く基本的な知識が何もない状態で介護の世界に飛び込んだ自分と重なって、かなり共感できて、面白くてたまりませんでした。 
   
 読む速度が遅くて、なかなか4巻くらいまで読んで、今日は切り上げてきましたが、なかなか、リアルな問題を切り込むような内容で、また、読みにいきたいなって思います。 
   
 在宅介護の家族の精神的・身体的負担、追い詰められていく様子もリアルに描かれていて、 
 昔の介護現場の問題、また、現代での介護現場での現状も、リアルに描かれているように思います。 
   
 尿意・便意があっても、夜は紙おむつをつけて寝ないといけない現状も、鋭く書かれていました。 
   
 また、介護者の精神的・身体的負担も、鋭く書かれていて、在宅での介護者の負担を考えさせられました。 
   
 昔はキャリアがあって、ばりばり働いておられた方が、公衆の面前で、オムツをはずして便をぼとぼと落とす・・・・その漫画の場面と、つい最近、便失禁で食堂に便が落ちた様子がダブって、 
 日々の職場での出来事と重なることが多いので、とても興味深くて、いろいろ考えながら読みました。 
   
 おむつ交換時に暴れられる事とか、入浴拒否とか、 
 本当にリアルで「そうそう。そうそう！！！！」と共感できるところが多くて、 
 かなり面白いです。 
   
 全巻を制覇したいと思います～。 
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    <title>カルト文化</title>
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    <modified>2009-05-25T20:22:49Z</modified>
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    <content type="text/plain" mode="escaped">全体主義であるカルトの社会には、カルト特有の「文化」があります。 
 それは、カルトの団体、グループが違っても、共通している「文化」が見られます。 
   
 その「カルト文化」の中で訓練されてきた脱会者といろいろな時間を共有する中で、 
 「機械的に、事務的に何かをこなす」という状況が好ましい時、脱会者と一緒に作業をすると、非常にスムーズに進むので、「やはり、訓練されてきた方と、こういう作業をすると、無駄な時間が省けて気持ちいいな～。」って思います。これは、カルト経験のない方との作業では、なかなか、こうはいきません。同じ文化を共有した者同士だからこそ、コミュニケーションが円滑に進むことがあるのだと思います。 
   
 たとえば、団体で一緒に外食に出かけて、中国文化のように、いろいろな種類をみんなで取り分けて食べるという方法をしたいときも、カルト経験のない方と一緒だと、非常に時間がかかります。 
 まず、中国文化風の注文をするかどうか、決めるだけでも、一緒にでかけた人の様子をうかがいながら、「どうする？どうする？」と遠まわしに反応を見ながら決めるので、非常に時間がかかるし、いざ、食事を選ぶ時も、互いの反応を伺いながら決めていくので、非常に時間がかかります。 
   
 ところが、脱会者同士で出かけると、「中華風に取り分けて食べる？そして割り勘にする？」と質問すると、即座に「そうしよう！」と決まります。そして、注文を決める時も、決断が早くて、どんどん決まっていきます。それは、相手の顔色を伺いながら決めないからです。二元論の習慣があるので迷わない、「これが好き」「これが嫌い」とスパッと決まるので、どんどん注文を決めることができるからです。 
   
 そして、支払いの段階でも、相手の様子を伺いながら・・・「誰がとりあえず、代表で支払う？」と長い時間、おろおろ気を使う演技をしなくてもよくて、大体、カルト文化の中で、そういうときに代表で支払っていた人が取り仕切るので、またまた、スムーズに進みます。ぱっぱと計算して、一人当たりいくらの支払いになるか機械的に計算して、「迷いながら、申し訳ないと思っている」という演技をしないで行動するので、効率よくはかどります。 
   
 そういうとき、時間の無駄遣いがなくて、合理的なので、「カルト文化を共有した者同士」は、本当に楽だなあ～って思います。 
   
 また、例えば、教会で食事会があるときも、カルト脱会者と一緒に準備や片づけをするとき、効率よくできるので、やはり訓練された人と一緒に機械的な作業をするのはいいなあって思います。 
 多分、同じ「文化」があるので、機械的作業をするときのコミュニケーションの方法が同じだからだと思います。 
   
 大体、「相手に気を使う演技」という無駄が省けるのが、本当に効率的だと思います。 
   
 カルト社会では、食事会等の準備・片付けをする際、「お客様へのｻｰﾋﾞｽ」が大切なので、手早く作業をすることが求められます。また、作業中に不具合が生じた時も、敏速な対応を訓練されているので、非常に早く次の手段に移る事ができますが、カルト経験のない方と一緒に作業をすると、そこでも「相手に気を使っておろおろする演技」が入るので、時間が無駄に過ぎるわりには解決しない・・・」という状態が生じるので苛々する事があります。 
   
 先日も、教会で食事会があって、ある方が自主的にお好み焼きを焼いてくださっていたのですが、お腹をすかせて待っている人が沢山おられるのに、準備の動作が遅くて、私にはスローモーションに見えました。お腹をすかせて待っている方が沢山おられるので、それを見て苛々したのですが、善意で自ら進んで焼いてくださっていたので、忍耐して見ていました。 
   
 ところが、お好み焼きは全然焼けていないので確認すると、どうやらホットプレートに不具合が生じて火力が落ちていました。その方は、10分くらい「さっきまでは、ジューっと音がしていたんだけどねえ・・・」と言うだけで、何も行動をされないので、その行動の遅さに我慢ができなくなって、彼女のしていた作業を奪い取ってしまいました。 
   
 即座に、こういう不具合の対処に誰が詳しいのかを考え、その方に質問し、すぐに問題が解決しました。そして、急いでお好み焼きをぱっぱと焼き始めました。 
   
 他方では、焼けたお好み焼きが一つの皿に盛られていたので、小皿に分けてすぐに食べられる準備をある方がしようと試みておられたのですが、その行動もスローモーションに見えました。 
 そこで、脱会者友達を呼んで、助けをお願いしました。 
   
 コアラ「ごめん。手伝って欲しい～。」 
 脱会者「何をしたらいい？」 
 lパラ「小皿に取り分けたお好み焼きにソースを塗って欲しい。」 
 脱会者：敏速に行動 
 作業終了 
   
 あっというまに作業が終わりました。 
   
 食器の片付けも同様で 
 カルトを経験していない方との作業では、いちいち、動作をするたびに「え？私洗うけどいいですか？いいですか？いいですか？」「私は流すけどいいですか？いいですか？いいですか？」というように互いの様子を伺い、申し訳ないという「演技」が入るので分担が決まるまで無駄な時間がかかるのですが、 
   
 脱会者と一緒だと一瞬で決まります。 
 コアラ「さあ。私は洗っていくから」 
 脱会者「じゃあ。私は拭くから。ふきんはこれでいいの？」 
 コアラ「そう。これを使って。ボトボトになったら新しいのはここにあるからね」 
 脱会者A「分った」 
   
 そういいながら、もう作業は開始しています。 
   
 このように作業がどんどんはかどる時、「やっぱり、訓練された人との作業は効率がいいなあ」って思います。そして「同じ文化」を共有していたという実感を覚えます。 
 その「共有」に嬉しさを感じます。 
   
 でも、カルトでの訓練を受けていない方との作業だと、こうはスムーズにいかないので、 
 それはそれでいいのですが、どうしても作業がスローモーションに見えて苛っとすることがあります。もっと忍耐が必要なんだろうな。 
   
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    <title>後遺症！？</title>
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    <modified>2009-05-23T16:32:27Z</modified>
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    <created>2009-05-23T16:32:27Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">今日、仕事をしている時に、上司から「あなたね。教えられたとおりにしか仕事ができないの！？　今まで、自分で判断する仕事をしたことはないの！？」って怒鳴られて絶句してしまいました。 
   
 今、私はまだ「新人」なので、自分で判断をして仕事をしてはいけない立場です。 
 施設長からも、「今は、先輩の指導に徹底的に従いなさい。ひとり立ちしたら、自分で判断していいけれど、今は、絶対駄目ですよ」と指導されているので、 
   
 私に仕事を教えてくれている上司に、いつも確認してから行動する事を徹底しています。 
 長い間、全体主義のカルト化教会で仕えていたので、報告・連絡・相談とか、確認してからの行動は、得意です。 
   
 「今は、新人だから」と自分の立場をわきまえて、日々、怒鳴られながらも仕事をしていますが、 
 「今まで自分で判断する仕事をしたことはないの！？」と怒鳴られた時には絶句してしまいました。 
   
 瞬間的に「私は、まだ、それほど強烈にマインドコントロールの後遺症があるのだろうか？」と思いました。 
   
 でも、カルト化教会に所属しながらも、いろいろな仕事をしたし、脱会してからも仕事をしたので、 
 必然的に「自己判断」を、仕事のいろいろな場面でしていたのを思い出しました。 
 そして、「今まで、仕事で自己判断を要求される仕事を経験していますよ」と答えると 
   
 すかさず、「そうでしょう！！！！　それなのに、どうして、今、いつもいつも、私に確認してからでないと仕事をしないの！！！」と怒鳴られました。 
   
 ああ、単に怒鳴る材料として、嫌がらせで言われたのかと理解して、ほっとしました。 
   
 そして、「あなたね。いずれは、一人でどんどん仕事をしないといけないのよ！　毎日、自分で臨機応変に対応しないといけないのよ！！　甘えすぎなのよ！！」 
   
 と、「確認してから（許可を得てから）動くこと」について、散々、怒鳴られました。 
 しかし、「あら。そうですか。では確認しないで、自分で仕事をさせていただきます」なんて事はできない立場なので、黙って聞いていました。 
   
 だいたい、新人教育を叱咤激励で行うのは、時代遅れなんだよ、 
 今は、「コーチング」の時代なんだよ。 
 新人いびりの教育は、古いんだよ。 
   
 その言葉を言いそうになりましたが、 
 なんとか、ぐっとこらえました。 
   
 毎日、毎日、怒鳴られて、 
 私の貴重な人生の時間を、この職場で過ごしていいのだろうか？ 
 私は、虐待に身を任せていないだろうか？ 
 自分を大切にしているだろうか？ 
   
 そう考える事もあります。 
   
 その時、「介護」という分野を選ぶまで、決断するまで考え抜いた過程を思い出します。 
 この仕事を選んだ理由の原点に戻ります。 
 そして、何より、「go」と最終決断をするに至った聖書のみことばを、もう一度読み直します。 
   
 そして、自分の心、価値観を点検して、この仕事を選んだ原点を思い出して、 
 仕事に出かけています。 
   
 人生のいろいろな季節がある中で、 
 きっと、今は、この職場でないと学べない事や、この職場でないと出会えない人や、 
 この職場でないと関わる事ができない方と過ごす時間が与えられている時なのだろうなあって思います。 
   
 ここで学ぶ事は、私の人生の為に、価値あること、大切な事、有益な事なのだと思います。 
 今は理解できないとしても、きっと、理解できる時、その価値が見える時がくるのだろうって思います。 
   
 神様は、私の人生の中で、私を訓練し、導き、「人を知り、人を生かす」「良き隣人である」ということを教え続けてくださるのだと思います。 
   
 そして、「寄り添う」っ てどういうことか、「愛する」ってどういうことか、 
 「期待する」ってどういうことか、「通過する」ってどういうことか、教え続けてくださり、 
 愛する事を学ばせてくださるんだろうなあって思います。 
   
 聖書のみことばを思い出して、思い巡らして、勉強して、調べながら、 
 毎日、「今日も、仕事の中で宝を見つけることができますように・・・」と祈っています。 
   
 充実した一日を過ごして帰宅して、神様の言葉に心を向ける時間を持ちながら、 
   
 ふっと 
   
 「でも、やっぱり説教したいな～！！！！！」って思います。 
   
 今は、仕事に慣れるのが精一杯で、チャペルのメッセージをお休みさせていただいています。 
 仕事の勤務が不規則なので、毎週、確実にチャペルでメッセージできない、また、充分な準備の為に時間が持てないという理由で、チャペルのメッセージをしばらくお休みさせていただく事にしました。 
   
 仕事に慣れて、充分、メッセージの為の準備もできるようになれば 
 再び、メッセージをさせていただく予定ですが、なかなか、余裕が出てこないんですよね。 
   
 でも・・・・・・ 
 説教したい～！！！！！！！ 
   
 そのためにも、早く、仕事に慣れたいものです。 
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    <title>社会勉強</title>
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    <modified>2009-05-19T16:57:39Z</modified>
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    <created>2009-05-19T16:57:39Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">仕事から帰って、軽く食事をしてリラックスする時間を持つ時に、「幸せだなあ～」って思います。 
   
 「介護」という現場に、全く度素人の私が飛び込んで、仕事も大変ながら、職員同士の関係の大変さに疲れて頭が痛くなりながらも頑張って、ようやく、仕事に慣れてきたと思ったら移動になって、まだ最初から仕事を覚えています・・・・ 
   
 最初は、覚える事が一度に沢山あって大変だけど、お給料をもらいながら専門職の勉強ができるって、有難いなあって思います。そして大変な人間関係も、社会勉強の一つなんだろうなあって思っています。 
   
 一般社会って大変な事も沢山あるし、人間関係のわずらわしさもあるけど、 
 カルトと違って、共同生活をしているわけではないので、職場から帰宅したら、「自分だけの空間」があって、「安全な場所」があって、自分のやりたいことを仕事以外の時間で自由にできる、 
 それが本当に素敵な事だと思います。 
   
 カルトの世界では、私生活の細部に至るまで、主任牧師であり、使徒であるデローの指示に絶対服従することが求められていたけど、今は、そういう部分から本当に自由になっているのが嬉しいです。 
   
 私が、本当に「やりたいこと」はあるけれど、その準備として、今の期間があるのだろうなあって思っています。 
   
 「介護」という専門分野に飛び込んで、高齢者は、どんな些細な事が命を落とす原因になるかもわからない事が多くて、責任の重い仕事だと実感しています。全くの素人が介護の世界に飛び込んで、「介護技術」も現場で積み重ねる事で学びつつあります。 
   
 今まで知らなかった事を、学ぶ過程は忍耐が必要だし、怒鳴られる事ばかりだけど、 
 ゆっくりでも、確実に「介護技術」を身につけていく楽しみがあります。 
 これが一生の仕事にはならなかったとしても、ここで学んだ事は、私の人生において役に立つ事だと思います。 
   
 職場で教えてもらう事は、自分の生活にプラスになる事が多いと思います。 
 たとえ、「パート」であっても、「バイト」であっても、どんな職種でもそこで学んだ事は何処かで自分にとって役に立つものだと思います。 
   
 人間関係の煩わしさも含めて、日々、職場で学習している事は、「自分への投資」だと考えています。しかも、給与をもらいながら学習できるのだから、カルトではない世界は、面白いなあって思います。仕事と、私生活が切り離せるって、とても素敵です。 
   
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    <title>ブログのお引越し・・・</title>
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    <modified>2009-05-15T14:18:37Z</modified>
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    <created>2009-05-15T14:18:37Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">「コアラさんのブログ」のクルルが、事情があって閉鎖される事が決まったようです。 
 完全に閉鎖されるのは今年の11月みたいで、まだしばらく期間はありますが、 
 それまでに、ブログの引越し先を見つける必要があるみたいです・・・ 
   
 きちんと引越し先に、過去記事の引越しもできたら、ちゃんと、このブログでお知らせをしたいと思います。それまでの作業は大変そう・・・・ 
   
 私は個人的に、クルルが気に入っていたので、使えなくなるのは残念です。 
   
 一応、引越しをしても「コアラさんのブログ」というタイトルは、そのままにしようと思っています。 
 詳しい事が決まれば、お知らせしますね～。</content>
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    <title>顔面火傷</title>
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    <modified>2009-05-06T05:07:56Z</modified>
    <issued>2009-05-06T05:07:56Z</issued>
    <created>2009-05-06T05:07:56Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">ＣＮＮニュースの中で「A child of war」というタイトルの映像がありました。 
 こちら： http://search.cnn.com/search?query=A+child+of+war &amp; type=video &amp; sortBy=date &amp; intl=true 
   
 女の子が横を向いて座っている写真をクリックすると映像が見れます。 
   
 このビデオに出てくるシャムちゃんの顔面火傷の映像を見て、ショックを受けました。 
 そして、いろいろ考えました。 
   
 とても可愛い女の子が、自爆テロの犠牲になって、失明し、顔面が火傷でぐちゃぐちゃになったのです。そのトラウマは、どれほどのものだろうか、そして、顔面火傷によって、彼女の人生でどれだけの苦労が待っているだろうか、そう考えると心が痛みました。 
   
 また、 こちら の映像は、顔を拳銃で撃たれた被害者女性が整形手術を受けたというニュースです。こちらも写真をクリックすると映像が見れます。 
   
 こちら は手術を受けた女性が感謝を表明しているビデオです。 
 こちらも、写真をクリックすると映像が見れます。 
   
   
 世の中には、想像をしたこともないような被害に突然見舞われる事があります。 
 そして、日本では、その被害者についてあまり報道がされないので、突然の悲劇に見舞われた方の人生について考える機会が少ないかもしれません。 
   
 私は、機能不全家族で育ち、その後、カルト化した教会で献身をして、脱会をしました。 
 脱会してから、自分のリハビリテーションをするときに、「自分ほど不幸な人はいないだろう」というような悲劇のヒロインのような意識がありました。 
   
 しかし、同じような被害に遭われて苦しんでおられる方が多いのだと、コアラのブログに連絡をしてくださる方々とのやり取りによって知るようになりました。 
   
 また、トラウマに関する文献を読むことで、想像できないようなトラウマとなる出来事に突然見舞われた被害者がなんと多いのだろうかと気がつきました。 
   
 このビデオにしても、女性にとって、身体の中で「顔面の大火傷」というのは、なんという精神的苦痛をもたらすものだろうかと思いました。 
   
 私は、長い間、全身アトピーが酷くて　（というより、医者が気軽に出していたステロイド剤の怖さを知らないで、だらだら塗り続けた事によるリバウンドだったと思いますが・・・） 
 全身が、腫れて、皮膚は像のようになり、全身から黄色い膿が出て、あまりの痒さによって、身体が震えていたという経験をしました。 
   
 ステロイドへの恐怖と、医者への不信によって、病院へ行くのも怖くて、リバウンドの状態を民間療法で治そうと、いろいろ試みたり、自分で工夫したりしながら、 長い間、全身膿だらけで、異臭がする、強烈なかゆみに襲われ、全身血だらけになるという症状で苦しみました。 
   
 その姿は人間のようではなくて、私を見る人はあからさまに嫌な顔をしました。 
 そして「あなたは不潔だから、そんな病気になるのだ」とか「うつるから近づくな」といわれたり、 
 善意で「このローションが効くから」と勝手に私の腕や手に、突然ベビーローションだの、いろいろなものを塗られて、その刺激でかゆみと痛みが悪化して、拷問にあっているようなときもありました。 
   
 それを訴えると「善意に対して、常識のない反応をする」とさらに嫌がられた事もありました。 
   
 アトピーという非常によく知られている病気でさえ、そのような扱いを受けるのですから、 
 顔面が火傷でつぶれている・・・・・ 
 そういう女性に対する冷酷な仕打ちは、容易に想像ができます。 
   
 いや、実は私だって、最初に映像の中の顔を見た時は、「不快感」を覚えました。 
   
 ビデオを見る中で、状況が把握できて、「被害者なのだ・・・」と分かり、その方の気持ちを想像するに至りました。同時に、自分だって環境次第で、そのような被害に突然見舞われる可能性があり、一瞬にして顔に大火傷を負うことだって、考えられると気がつきました。 
   
 もし、私が同じ経験をしたら、どんな気持ちだろう？ 
 そう考えるだけでも、困難を覚えました。 
   
 世の中には、私が知らないだけで、想像を絶するような苦労をしておられる方が、本当に多くおられると思います。それを忘れ、世の中で「成功者」と言われているような人と、自分を比較して、「自分こそ、悲劇のヒロインだ」という意識を持ちやすい自分の弱さがあります。 
   
 でも、ちょっと、世界を見渡すと、 
 私だったら絶対に克服できない苦しみを通過して、克服しつつ生きておられる方々がおられるのです。 
   
 狭い世界で「自分だけが悲劇のヒロイン・・・」と思った時には、 
 ちょっと視野を広くして、情報を収集すると 
   
 「隣人として生きるってどういうことだろうか？」という意識に変わっていくのではないかと思います。</content>
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    <title>自由の喜び</title>
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    <modified>2009-05-05T18:12:45Z</modified>
    <issued>2009-05-05T18:12:45Z</issued>
    <created>2009-05-05T18:12:45Z</created>
    <content type="text/plain" mode="escaped">今年になって転職して、介護という世界で、職人の世界のように、日々、怒鳴られ、馬鹿にされ 
 仕事自体も危険がいつも隣り合わせという気が休まるところがない職場で、涙を流す事もしばしばあります。 
   
 全体主義ではない世界では、新人いびりにあっている私を見て、嬉しそうにはしゃぐような職員もいれば、こっそりと、「耐え抜いて辞めないでね」と励ましてくださる方もあります。 
   
 馬鹿にされ、あまりにも酷い言葉に驚いて、心が重くなる事もあります。 
 そして、ボソッと、「頭が痛くなる・・・」とつぶやいている時もあります。 
   
 その時、ストレスを思えているのですが、同時に、「自由」の喜びも噛み締めているのです。 
   
 何故なら、今は、もう、いつでも笑顔でいる必要はないのですから。 
 そして、「疲れたし、頭が痛くなる」と愚痴をこぼしたっていいのですから。 
 そして、涙を流す自由を取り戻したのだから。 
 そして、その時に、「不信仰だ！！！！」と自分を罰しなくてもいいのだから。 
   
 そして、仕事から帰宅する時、 
 美味しそうなデザートを自由に買っても、「今月、残りをどうやって生活すればいいのだろう・・・」って青ざめる事もなく、 
   
 疲れて外食する時に「自分の欲の為に、神様のお金を無駄遣いしてしまった。本来なら、教会が借金で困っているのだから、ミニストリーに捧げるべきなのに・・・」と罪悪感を覚えなくてもいいし、 
   
 毎日、帰宅して、自分の空間もあり、自分が読みたい本が読めるし、聖書をじっくり読めるし、 
 叱責の電話に怯えなくてもいい、 
   
 そして、充分な睡眠時間もあるし、休日には、自分の楽しみの為に時間が使えるし、 
   
 沢山の「自由」を私は得る事ができたから、 
 私は、幸せだな～って思います。 
   
 長い間、自由意志を剥奪され、自分の感情すら剥奪され、 
 奴隷として生きてきたからこそ、 
   
 「自由」の尊さが分るのだと思います。 
   
 もし、カルト経験がなかったら、自由の素晴らしさに気付かず、不平不満を抱き、いつも不幸な自分であったかもしれません。 
   
 「苦しい」といえる事、 
 「悲しい」といえる事、 
 「怒っている」といえる事、 
 「疲れている」といえる事、 
 いつも、いつも笑顔でいる必要がないこと、 
   
 そういう自由を取り戻したことが、とても、とても嬉しいです。 
   
   
   
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