コアラさんのブログ

コアラ (4)
カルト化教会した教会脱会後のリハビリ,回復、そして成長へ。
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2005年12月06日開設
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トラウマに向き合う | リハビリ:支援 2008/10/13 16:41
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002390530

トラウマ体験に向き合い、過去の記憶をたどり、整理する意味について、

「トラウマへの対処」J・G・アレン著」:誠信書房から、少しまとめてみました。

 

 

1)トラウマ体験と向き合う意味について

 

トラウマ体験を思い出すことの意味は、自己理解を得る事である。

侵入的記憶と取り組み始めたら、怯え、当惑するかもしれないが、その過程は、自己理解へと導く。

 

2)トラウマ体験によって引き起こされた症状において、以前は理解できなかった経験を言葉に置き換える事で、断片化されたものを一貫性のある自叙伝的記憶に組み込む事ができる。

 

3)断片化した記憶が、一貫性のある記憶に組み込まれる時、トラウマを思い出させるような引き金に対して、感情的に反応しないようになってくる。経験の意味が明確になると、理性をつかさどる脳は、感情をつかさどる脳を、もっと適切に扱えるようになる。

 

4)自己理解が深まる事で、他者にトラウマ体験を話せるようになる。

 それにより、慰めや、やすらぎを経験し、孤立無援間から、愛着を経験するようになる。

 秘密の束縛を解き放ち、他者がその証人となることで、トラウマ体験の理解、慰め、安堵を得る   ようになる。

 

5)他者からの、慰め、安らぎ、自分への肯定によって、自分自身への同情心が育つ。

 

6)トラウマを受けたほかの人に対して、同情心が出てくる。

 

7)他者を慰める事により、自分自身へのイメージがさらに肯定的になる。

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痛みが益になるとき | リハビリ:支援 2008/09/25 22:32
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002357521

以前、ブログで書いていた事で、「昔のコアラさんのほうが、今のコアラさんよりも良かったといっていたのを聞いたのは、一人だけではありません」という発言について、私なりに、どのように対処するのがいいのか、真剣に悩んで考えました。

 

最初は、「理解されるより、理解する事を考えよう」と必死で考えてみたり、

それから、「泣き寝入りではなくて、相手に抗議し、きちんと説明してもらおう」と考えたり、

相手の発言の意図が分からないし、私は誰からも支配されたくないし、本当に悩みました。

 

その中で、複数の方からの助言を頂き、自分は何を求めているのか、じっくり考えました。

 

そして、牧師夫妻にも相談して、会話を重ねました。

 

私は、長い間、英語圏の方との関わりが多かった事や、アメリカで弟子訓練を受けたこともあって、真剣な話ほど、直球で話をします。遠まわしに話されると混乱する事があります。ポイントがはっきりしないと、非常に混乱するのです。そういう所を、牧師夫妻はご存知なので、

特に奥様のほうが、直球で会話をしてくださったので、非常に理解しやすくて、

スムーズに会話を重ねる事ができました。(直球トークは、非常に合理的で誤解が少ないと思います)

 

何度も、何度も話をして、私も、相手に対する嫌悪感もあらわにして、

どのように対処するのが一番、平和的か、そして、私の中の克服する点は何か、

そういうことも、話す事ができました。

 

今回の発言は、本当に酷かったし、私は酷く傷ついたけど、

牧師夫妻と話を重ねることができて、自分の弱さを知ってもらい、しかも、ありのままで受け止めてもらえるという事を、もう一度経験しました。

 

そして、自分のトラウマによる傷、克服する必要がある部分も直視できて、

「ああ。また課題が増えた。。。」という部分で、多少、うんざりしたけど、

この出来事がきっかけとなって、牧師夫妻との距離が、また、いっそう縮まったのは嬉しい事でした。

 

とにかく、今回は、相手に説明を求めるという方法ではなくて、

先生のほうから、私の痛みを伝えてもらうことが、一番平和的な解決だと思ったので、

先生に、それをお願いすることにしました。

 

私には、発言者に対する疑問、怒りがあるけれど、

今回は、相手の弱さも考慮して、受け流そうかなとも思っています。

 

しかし、こういう「個人的葛藤」について、ゆっくり、しっかり、耳を傾けてくださる存在があることに、嬉しくなります。カルト化教会所属時代には、個人的葛藤の相談はタブーでした。

みんな、必死で、献身し、課題が沢山あって、時間がいくらあっても足りない状態だったので、

個人的な葛藤について話を聞いている暇なんでなかったからです。

 

そういうことは、自分で消化しなさいっていうのが常識でした。

 

牧師はミニストリーが最優先だから、そんなつまらない個人の葛藤について相談を受けるほど暇ではないと、教えられていました。ただ、求道者とか、新しく教会に加わった人は「ラブシャワー」の時期だから、対応は別でした。

 

でも、今は、個人的な葛藤について、自分の弱さをみせても、叱責されないし、

むしろ、一緒に考えてくださり、客観的に見る事ができるように助けてくださるし、

「こんなことで、悩むのか」と馬鹿にされないし、

 

こういう人物との出会いがあって、本当に嬉しいと思います。

今回の出来事で充分悲しんだけど、「慰め」も与えられ、「以前よりも、親密な信頼関係」を築く事もできて、

 

結果的には、悲しい出来事も益になったのだなあって思いました。

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関根先生が京都に!!! | リハビリ:支援 2008/09/06 23:11
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002320161

夜に、関根先生のブログをチェックしたら、なんと、今日は「京都造形大学で講義」とあって、ショックでした。

 

関根先生が京都にいらっしゃるなら、一度は、顔を見てお礼を言いたいのになあって思いました。

関根先生を個人的には存じ上げませんが、先生の礼拝説教の配信と、日々のみことばの配信によって、どれほど支えられたか、言葉にする事ができません。

 

一度、顔と顔をあわせて、お話をさせていただくことができたら素晴らしいなあって思います。

 

一度は、MACFの礼拝に出席してみたいと思います。

だけど、東京まで、結構、交通費がかかるんだよねえ。

実現するのは、まだまだ先かなあ。

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過程重視の意識 | リハビリ:支援 2008/07/31 23:24
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002236351

カルト化教会での教え込みの中に「何をするにしても、神様の栄光を表すためには、プロを目指さないといけない。プロとして、仕えなさい。最高のものを神様に捧げられるようにしなさい」という事がありました。

 

神様には、一流のものを捧げなさい。

神様には、自分の持っている物の中で、最高のものを捧げなさい。

与えられた働きには、プロとして取り組みなさい。

 

「プロ意識を持つ事」

それは、より成長していく為の目標としてはよいものだと思います。

 

もっと、成長できる、もっと改善できる、そのような希望を持ち、向上を目指して歩む事は素晴らしい事だと思います。

 

しかしながら、カルト化教会で求められていた「プロ意識」とは、そういう「単なる目標」ではありませんでした。それは「絶対命令」だったのです。そこに問題があったと思います。

 

何をするにも「プロとしての結果」を出さないといけない。

それは選択の余地はなく、自分の現実の能力よりはるかに上回っている事を「結果」として出す事を命令されていました。

 

例えば、突然、「次の日曜の礼拝の時に、スキットをしなさい」と突然命令された時も、

私には演劇の基礎すら知らないのに、一週間で「プロとしての結果」を出すように命令されるのです。そして、それは私一人で行うのではなく、虐待的牧師から指示された人と行う必要がありました。

 

全くの度素人なのに、プロとしての完成度を要求される、

これは、非常に大きなプレッシャーでした。

 

しかも、「私は素人ですからできません」ということは許されない教会でした。

最初の頃は、何度も「私は素人だからできません」と伝えたのですが、その度に「やってもいないのに、最初から、できないというのは不信仰だ。信仰によって、不可能は可能になるのだ」と言われました。どんなに頼んでも、一旦「やりなさい」と命令が出れば、それは絶対にノーとは言えないことなのだと学ぶのに時間はかかりませんでした。

 

私にできる事は、限られた時間内で、これ以上は努力できないくらいの飽和状態で頑張る事。

神様の前に、絶対に嘘はつきたくないので、本当に、これ以上は無理なのだという限界まで頑張る事。

 

プロとしての完成度には満たなくても、飽和状態で頑張るということしか私にはできないので、

とにかく、何をするにも飽和状態で頑張りました。

 

それだけ頑張っても、勿論、「プロとしての結果」なんて出せるはずはなくて、

弟子訓練時代の評価は「優:良:可:不可」の中の「不可」がつけられていました。

 

悔しくて、悲しくて、何度も隠れて泣きました。

でも、神様は、私が飽和状態で努力した事を知っていてくださるということが、

私の希望でした。

 

指導者や、虐待的牧師から「もっと完成度のよい事ができた筈だ。」といって、まるでサボっていたように叱責されても、飽和状態で努力した事、これ以上の結果は出せないところまで頑張った事は、神様が知っていてくださるから、神様にゆだねようって思いました。

 

それでも、叱責され、どんなに説明しても、決して理解される事はなくて、

苦しくて、辛くて、心が痛くて、泣きました。

 

ただ、「神様は私の証人だ」という事だけが希望でした。

心の中で「神様、いつか、真実を明らかにしてください」と祈りました。

 

 

脱会してから、カルト化教会の被害者と交流をしている中で、「プロとしての完成度を求められる」という部分も、共通している事が多いと気付きました。

 

そして、「プロとしての完成度」の教え込みによって、脱会してからの、「回復への取り組み」にも支障が出ている事を何度か見ました。

 

それは、心の中に植えつけられた「最高の結果を出さないといけない」という意識があまりにも強い為に、現実の自分を見て、そのギャップがあるために「自分は駄目だ」と言いつづける事でした。

 

実は、それこそが、カルト化教会での目的だったのです。

リーダー以外の人の自己評価を低くする事によって、人は、ますますリーダーに依存するようになります。

 

自己評価が低くなると、ますます、自分での決定に自信が持てないので、

「神様のような存在であるリーダー」に指示を仰ぎ、無条件で服従するようになるからです。

 

それは、人をリーダーの思い通りに動くロボットにする為には、とても重要な事だったのです。

 

しかし、「何をするにしても、プロとしての完成度がないといけない」という基準は、不合理です。

何故なら、どの分野のプロであったとしても、最初は、誰でも「素人」だったからです。

 

そして、一般の人には見えない時代に、

基礎を学ぶところから始まったのです。

 

そして、挫折を繰り返しながら、基礎を習得して、次の段階に進む。

 

こういう過程があってこそ、あらゆる分野の「プロ」が誕生するのです。

 

カルト化教会では、その「過程」を完全に無視して、いきなり「プロとしての完成度」を問答無用で求めるのです。それは、その人の依存心を高める為なのです。

 

だから、脱会したら、この「教え込み」をもう一度吟味する必要があるのです。

 

「何をするにしてもプロとしての完成度を結果として出す」というのを、目標にするのは害ではありません。しかし、もし、その過程を無視するなら、それは「私は駄目だ」という意識を生み出すだけの害となるのです。

 

神様は、「結果」だけを期待しておられるのではなく、むしろ、そのプロセスのほうをもっと、もっと大切にしてくださいます。そして、私たちも同様に「過程」を大切にする意識に切り替える事が大切だと思います。

 

マタイの福音書25章にはタラントのたとえが書かれています。

この話の中で、主人がしもべを褒めた理由は「わずかな物に忠実だった」ことであって、

結果に基づいていた訳ではありませんでした。

 

そこでは「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから」と褒められているのです。

 

脱会してからの回復への取り組みで、大切なのは「すぐに最高の結果を出す」ことではなく、

 

「回復を求めて、今、できることを忠実にすること」という過程こそが大切なのです。

 

結果だけに注目する生き方から、

過程を大切にする生き方へと、意識を変えていく事が大切だと思います。

 

 

 

 

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キリスト教新聞記事 | リハビリ:支援 2008/07/27 00:26
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002224263

キリスト教新聞に、アエラで特集されたキリスト教のカルト化問題についての記事がかかれています。

 

キリスト教界において、見たくない、聞きたくない、知りたくないような、ひどい被害が起こっています。そして、その多くは、被害者が泣き寝入りしているという状態です。被害者が近隣教会に助けを求めても、「牧師を許しなさい」とか「神様にゆだねなさい」というような助言がなされて、被害者への心のケアもされないし、問題も放置されているような状態です。

 

キリスト教界内部からの自浄作用が、今後求められるのだと思います。

一般社会の方々は、そういう部分をシビアに見ておられるのです。

その期待を無視しないような教会界になればと願います。

 

ブログ「吉祥寺の森から」の7月22日にも、関連記事が書かれていました。

 

この、キリスト教会内での問題を、他人事としてみるのではなくて、キリスト教界にとって、重要な出来事であり、放置してはいけないと、一人でも多くのクリスチャンの自覚が強くなるように願っています。

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アエラ7月28日号 | リハビリ:支援 2008/07/19 22:16
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002207971

7月21日発売のアエラ7月28日号において、「キリスト教会のカルト化」についての記事が書かれています。

 

キリスト教界で、この問題に目をつぶったり、自分たちとは関係がない事だと無視したり、また、事実を隠したりしても、常識のある一般社会の方々が、これらの問題を知った時に、「これは問題だ」と指摘されるのです。

 

いくら、キリスト教界が、この問題を知らぬ、存ぜぬで通そうとしても、そこには限界があると思われます。そして、キリスト教界での、問題を放置し、被害者を放置しておきながら、「教会成長」といって、派手なイベントをしてみても、常識感覚のある一般社会の方々は、問題が放置されている事に、疑問を感じるだろうし、そうすることで、ますます、キリスト教界の信頼をなくしていくことになるのだと思います。

 

いくら、「神様は愛だ」と叫んだって、被害者への愛のある、誠実な対応がなされないなら、それは、むなしいものであると言えると思います。

 

カルト化した教会が「組織拡大」をしたって、それが本当に「祝福されたリバイバル」といえるのでしょうか。カルト化した教会のメンバーが急激に増え、献金が増えても、それが本当に「教会成長のモデル」といえるのでしょうか。

 

教会内で権威を振りかざし、精神的、肉体的に虐待をして、誠実な謝罪がなされないというのは、問題だと思うし、そういった教会を擁護するのも、おかしいのではないかと思います。

 

キリスト教界でのカルト化問題について、果たして、教会に自浄作用があるのかどうか、

社会は見ていると思います。その、期待を裏切る事がないようにと願います。

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言われて嬉しかった事 | リハビリ:支援 2008/07/17 23:05
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002204203

このお題で投稿する

icon 今週のお題

あなたが異性に言われて嬉しかった言葉は何ですか?


   

 

「異性」だから、嬉しかったわけじゃないけど。

 

先日、今の教会の牧師と話をしているときに、

私は、カルト化教会の被害にあって、ハラッサーから酷い仕打ちを受けたので、

今後も、そのようなことがあったら怖いって、打ち明けた時に、

 

牧師が「その時は、僕に、相談したらいい」って言ってくれたこと。

 

先生、男らしい、かっこいいと思ってしまった。それで、うつむいて、ニヤニヤしてしまいました。

 

そうそう、カルト化教会から脱会して、初めて、この教会に来てカウンセリングを受けた時、

私は、まだまだ、虐待的牧師のマインドコントロールが取れていない状態だったから、

虐待的牧師から、どんな嫌がらせをされるか分からなくて、怖くて、怖くてたまらなかった時がありました。

 

その時に、今の教会の牧師は、 「僕が君を守る」って言ってくださって、

本当に安心したのを覚えています。ただ、口先だけの言葉だとしても、嬉しいって思いました。

 

でも、それは、口先だけの言葉ではありませんでした。

本当に、牧師は、私を虐待的牧師から守ってくださいました。

誠実に、誠実に、寄り添って、関わり続けてくださいました。

 

いろいろあったけど、このような牧師との出会いがあって、心から感謝しています。

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癒しの過程 | リハビリ:支援 2008/05/06 18:09
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002069800

トラウマとなった出来事が、肯定的な意味で人格と統合できることが、心的外傷の後遺症から癒される事だと思います。その為には、トラウマとなった出来事と向き合い、整理していく過程が大切になります。

 

ヨセフの物語を読むときに、トラウマとなった出来事を、人格的統合する過程について、理解しやすいと思います。ヨセフは父に愛され、特別扱いされたので、兄弟たちから恨まれました。

 

そして、奴隷商人に売り渡されたのです。

 

家族から、兄弟から妬まれ憎まれ、売られてしまったという傷は、心的外傷となる出来事であったと思います。そして、飢饉が起こって、ヨセフの兄弟たちが食料を求めてエジプトに来たときに、ヨセフがどれほどの葛藤を覚えたのか、その記事から見ることができます。

 

ヨセフの兄弟たちを見たとき、彼は激しく泣きました。

激しく感情が揺さぶられたことだと思います。

しかし、最終的には、「自分がエジプトに売られたのは、飢饉のときに家族を守るためであったのだ」との結論に達しました。

 

私は、これが心的外傷を人格と統合できたときであると思います。

 

理不尽な過去と向かい合い、整理し、あってはならない経験をしたことは消えるわけではなく、その酷い経験という事実があって、今の自分があるということ。それを受け入れて、認めて、今の自分との人格に統合すること、ヨセフはそのプロセスを通りました。

 

ヨセフの生涯から、心的外傷を乗り越えるプロセス、それを意味あるものとして自分に取り入れるプロセスが見えてくるように思います。

 

そして、そのプロセスにおいて、順序は一定方向であるべきだと思います。

 

もし、誰かが「ヨセフは飢饉から家族を救うために、兄弟から恨まれるように運命付けられていたのだとか、ヨセフは、奴隷として売られる為に、最初から運命付けられていたのだというなら、それは違うと思います。

 

別に兄弟から恨まれなくても、奴隷として売られなくても、家族を飢饉から救い出す方法はあったことでしょう。

 

私は、神様が最初から、ヨセフが兄弟に恨まれるように仕向けていたとは思えません。

また、神様が最初から、ヨセフが兄弟の手によって奴隷として売られるように、意図しておられたとも思いません。

 

そのような考えを被害者に押し付けるのは、本当に酷い話だと思います。

 

そうではなく、ヨセフが兄弟に恨まれたのは、兄弟に愛がなかったからであり、

ヨセフが奴隷として売られたのは、ヨセフの兄弟の罪の結果であると思います。

それは、ヨセフの兄弟が神を恐れ、敬っているならば、避けることができた選択であると思います。

 

ヨセフの兄弟は、自分が行ったことを直視して、反省するべきだと思います。

(実際、そうしたみたいだけど)

 

だけど、ヨセフがトラウマとなる出来事、心的外傷の出来事に向かい合い、それを現在の自分と統合させたときに、「私がエジプトに売られたのは、このときのためでした」と結論することで、そのトラウマとなる出来事を、自分の人格に、肯定的に統合したのだと思うのです。

 

癒しのプロセスを完了したと言えるのだと思います。

 

これは、被害者が癒しのプロセスの中で、トラウマ体験を人格に統合することであって、自ら、問題に向き合い、整理し、涙を流しながら、最終的に出せる結論であるのが望ましいと思います。

 

そして、援助者は、最終的にトラウマ体験を、このような形で、肯定的に人格と統合できるように支えることが大切だと思います。

 

その中で、順序はとても重要であると思います。

 

決して、決して、

「ヨセフは兄弟から憎まれる運命だった」

「そのおかげで、ヨセフは成功をつかむことができた」という順序ではいけないのだと思います。

 

兄弟から恨まれるために生まれてきた人はいないと思うし、

両親から虐待される為に生まれてきた人もいないだろうし、

親から性的虐待を受けるために生まれてきた人もないし、

輪姦されるために生まれた人なんていません。

 

もし、最初から、神様がそれを意図していたのなら、

そんな神様には礼拝をしたくありません。

 

そうではないと思うのです。

 

兄弟が恨んだのは、兄弟の罪であり

両親が虐待したのは、両親の罪であり

親が性的虐待をしたのは、親の罪であり

輪姦したのは、その人たちの罪なのです。

 

だた、そういう環境を生き抜かないといけなかった被害者は、

それほどの出来事さえも、ばねにして、

それほどの出来事さえも乗り越えて、

 

より魅力的な人物となった、

乗り越える決断をした、

勇気を持って、忍耐を持って、大きな決心をして乗り越えたからこそ、

虐待されても腐らないで、

魅力的な人間と成長したのだと思います。

 

その順序を逆にして、被害者に押し付けるなら、

それは二次被害を与えるのと同じだと思います。

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心的外傷サバイバーにかかわる人の報酬 | リハビリ:支援 2008/05/04 00:41
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002063772

「心的外傷と回復」ジュデイス・ハーマン著:みすず書房を読んでいます。

 

そこで、心的外傷の治療に携わることの報酬について、すばらしい言葉が書かれていたので引用したいと思います。

 

「かかわることの報酬は、人生が豊かになったという感覚である。生存者の治療に携わる治療者は、携わる以前よりも人生の評価が幅広くなり、人生を大切に思うようになり、他者を理解する決断と希望の実現によって、鼓舞されている感じがすると、異口同音に語っている。」

 

心的外傷の生存者とのかかわりには、困難も生じるかもしれませんが、

それでも、すばらしい報酬を経験することもできるのだと思いました。

 

カルト被害を考えるときに、救出カウンセラーや、脱会カウンセラーの活躍と、その著書を読むときに、ここに書かれていたような「報酬」を受け取っておられることが伝わってくるように思います。

 

 

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心的外傷の治療者の問題 | リハビリ:支援 2008/05/04 00:14
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog/article/51002063721

「心的外傷と回復」ジュデイス・ハーマン著:みすず書房:6800円を読んでいます。

 

とても内容が濃い本で、海外のカルト問題を扱う本では、この本を推薦図書として紹介しているものが多いようです。

 

私は、個人的に、乳幼児期からの過程での虐待を受けたことのトラウマも抱えているので、

児童虐待の部分から読み始め、また、治療的関係についての箇所を読んでいます。

 

そこで気がついたのは、「心的外傷」の治療にあたる人には、非常に大きな精神的負担がかかること、それは、まるで心的外傷を受けた本人が経験したことを感じ始め、治療者自身が、心的外傷による後遺症の症状を経験するほどに、精神的負担がかかるということです。

 

この為に、治療者自身が、自分の生活に支障をきたすとか、

患者に対して逆転移を起こしてしまい、患者の加害者の行為を再体験してしまうということすらあるようです。

 

これは、「心的外傷」の治療に当たっている専門家が直面する事柄のようです。

 

ここまで、読んだときに、「心的外傷治療」のプロでさえ、これほどの精神的苦痛を体験してしまうのであれば、

 

心理学の分野には、全くの無知で、度素人の「牧師」が、「心的外傷」の問題を抱えている人の相談を受けたときに、対応できないということは、当たり前のことだと思いました。

 

そのように考えるときに、私が、成長過程で、自分の家庭で虐待されていることを相談した教師や、牧師が、「加害者の行為の再体験」とでもいうような反応をしたことも、簡単に頷くことができました。

 

「虐待を受けた」という生々しい体験を聞かされる人の内面で、

まさに、語られている内容を、自らが体験しているような感覚に陥って、

 

そんな感覚にさせられたということに対して、

心的外傷の経験を話している人に対して、怒りを覚え、

その加害者の再体験をしてしまうという心理状態を理解できないこともないと思いました。

 

このようにして、本来ならば、「支えよう」と思っていたはずの人が、

二次被害の加害者へとなるのかもしれません。

 

そして、心理学の専門家でさえ、このような問題にぶつかるのは当然だとしたら、

心理学なんて全く知らない、度素人なら、もっと、簡単にこのような精神状態に陥るのだと思います。

 

だから、心的外傷を受けた人が、誰かに相談するのは、非常に困難なのだと思います。

 

それを受け止め、支え、しっかりと聴くということは、

簡単にできることではないのかもしれません。

 

私には、今、寄り添って支えてくれる存在があります。

 

今まで、見つけることができなかった存在です。

 

この方は、私の話に圧倒されることもないし、

加害者の立場に回って、二次被害の加害者になることもありません。

 

抱えすぎて、私の問題を肩代わりすることもないし、

精神的負担になることもありません。

 

だからこそ、「これは私が克服しないといけない問題である」と認識することができたし、

ただ、寄り添ってもらうことが、私には必要なのだと理解することもできました。

 

そういう意味で、私のおかれている環境は、

非常に恵まれています。

 

「悲しむものは幸いです。その人は慰められるから」という約束のとおりに、

私は、寄り添ってもらうことで、何度も何度も慰めを経験しました。

 

治療者が直面する困難について、今まで考えたことはありませんでした。

 

専門書を学ぶことで、被害者とは違う立場からの問題も知ることができました。

 

心的外傷という深刻な問題を抱えていても、

きっと、きっと回復できると希望を持って、

ゆらゆらしながらでも、

確実に前進したいと思います。

 

 


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