カルト化教会での教え込みの中に「何をするにしても、神様の栄光を表すためには、プロを目指さないといけない。プロとして、仕えなさい。最高のものを神様に捧げられるようにしなさい」という事がありました。
神様には、一流のものを捧げなさい。
神様には、自分の持っている物の中で、最高のものを捧げなさい。
与えられた働きには、プロとして取り組みなさい。
「プロ意識を持つ事」
それは、より成長していく為の目標としてはよいものだと思います。
もっと、成長できる、もっと改善できる、そのような希望を持ち、向上を目指して歩む事は素晴らしい事だと思います。
しかしながら、カルト化教会で求められていた「プロ意識」とは、そういう「単なる目標」ではありませんでした。それは「絶対命令」だったのです。そこに問題があったと思います。
何をするにも「プロとしての結果」を出さないといけない。
それは選択の余地はなく、自分の現実の能力よりはるかに上回っている事を「結果」として出す事を命令されていました。
例えば、突然、「次の日曜の礼拝の時に、スキットをしなさい」と突然命令された時も、
私には演劇の基礎すら知らないのに、一週間で「プロとしての結果」を出すように命令されるのです。そして、それは私一人で行うのではなく、虐待的牧師から指示された人と行う必要がありました。
全くの度素人なのに、プロとしての完成度を要求される、
これは、非常に大きなプレッシャーでした。
しかも、「私は素人ですからできません」ということは許されない教会でした。
最初の頃は、何度も「私は素人だからできません」と伝えたのですが、その度に「やってもいないのに、最初から、できないというのは不信仰だ。信仰によって、不可能は可能になるのだ」と言われました。どんなに頼んでも、一旦「やりなさい」と命令が出れば、それは絶対にノーとは言えないことなのだと学ぶのに時間はかかりませんでした。
私にできる事は、限られた時間内で、これ以上は努力できないくらいの飽和状態で頑張る事。
神様の前に、絶対に嘘はつきたくないので、本当に、これ以上は無理なのだという限界まで頑張る事。
プロとしての完成度には満たなくても、飽和状態で頑張るということしか私にはできないので、
とにかく、何をするにも飽和状態で頑張りました。
それだけ頑張っても、勿論、「プロとしての結果」なんて出せるはずはなくて、
弟子訓練時代の評価は「優:良:可:不可」の中の「不可」がつけられていました。
悔しくて、悲しくて、何度も隠れて泣きました。
でも、神様は、私が飽和状態で努力した事を知っていてくださるということが、
私の希望でした。
指導者や、虐待的牧師から「もっと完成度のよい事ができた筈だ。」といって、まるでサボっていたように叱責されても、飽和状態で努力した事、これ以上の結果は出せないところまで頑張った事は、神様が知っていてくださるから、神様にゆだねようって思いました。
それでも、叱責され、どんなに説明しても、決して理解される事はなくて、
苦しくて、辛くて、心が痛くて、泣きました。
ただ、「神様は私の証人だ」という事だけが希望でした。
心の中で「神様、いつか、真実を明らかにしてください」と祈りました。
脱会してから、カルト化教会の被害者と交流をしている中で、「プロとしての完成度を求められる」という部分も、共通している事が多いと気付きました。
そして、「プロとしての完成度」の教え込みによって、脱会してからの、「回復への取り組み」にも支障が出ている事を何度か見ました。
それは、心の中に植えつけられた「最高の結果を出さないといけない」という意識があまりにも強い為に、現実の自分を見て、そのギャップがあるために「自分は駄目だ」と言いつづける事でした。
実は、それこそが、カルト化教会での目的だったのです。
リーダー以外の人の自己評価を低くする事によって、人は、ますますリーダーに依存するようになります。
自己評価が低くなると、ますます、自分での決定に自信が持てないので、
「神様のような存在であるリーダー」に指示を仰ぎ、無条件で服従するようになるからです。
それは、人をリーダーの思い通りに動くロボットにする為には、とても重要な事だったのです。
しかし、「何をするにしても、プロとしての完成度がないといけない」という基準は、不合理です。
何故なら、どの分野のプロであったとしても、最初は、誰でも「素人」だったからです。
そして、一般の人には見えない時代に、
基礎を学ぶところから始まったのです。
そして、挫折を繰り返しながら、基礎を習得して、次の段階に進む。
こういう過程があってこそ、あらゆる分野の「プロ」が誕生するのです。
カルト化教会では、その「過程」を完全に無視して、いきなり「プロとしての完成度」を問答無用で求めるのです。それは、その人の依存心を高める為なのです。
だから、脱会したら、この「教え込み」をもう一度吟味する必要があるのです。
「何をするにしてもプロとしての完成度を結果として出す」というのを、目標にするのは害ではありません。しかし、もし、その過程を無視するなら、それは「私は駄目だ」という意識を生み出すだけの害となるのです。
神様は、「結果」だけを期待しておられるのではなく、むしろ、そのプロセスのほうをもっと、もっと大切にしてくださいます。そして、私たちも同様に「過程」を大切にする意識に切り替える事が大切だと思います。
マタイの福音書25章にはタラントのたとえが書かれています。
この話の中で、主人がしもべを褒めた理由は「わずかな物に忠実だった」ことであって、
結果に基づいていた訳ではありませんでした。
そこでは「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから」と褒められているのです。
脱会してからの回復への取り組みで、大切なのは「すぐに最高の結果を出す」ことではなく、
「回復を求めて、今、できることを忠実にすること」という過程こそが大切なのです。
結果だけに注目する生き方から、
過程を大切にする生き方へと、意識を変えていく事が大切だと思います。
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