(その二十九の一)
北園克衛の実験詩について、[「意味によって詩(ポエジー)を作らない」で、「詩(ポエジー)によって意味を形成」したのである](『現代詩文庫』所収「清水俊彦」紹介文)ということについて、一番良い例は、「その二」で触れた、高柳重信の次の作品が上げられるであろう。ここで、それを再掲して置きたい。
・・・ ●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●
「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「―」もある。異次元の夜空の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧精神のなせるわざか。(無季)」
上記の「●○★?―」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢さんの解説文である。この句(?)について、藤島敏さんは、次のように解読(?)した。
死死生死
死生死死
エロス?
生死死
―死死生
この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これらの句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」のことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れない。
黒黒白黒
黒白黒黒
星(わからない)
白黒黒
——(そうだ)黒黒白
とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」でこの句(?)を鑑賞したい。
虚虚実虚
虚実虚虚
句?
実虚虚
―虚虚実 ・・・
これらのことに関連して、前回(その二十八)に触れた、次のことが甚だ明快となってくる。
・・・「私(注・北園克衛)が詩の作者として最も誠実にたち向っているところのものは、瞬間に消えていく幻影だか観念だかも定かでない〈ある何か〉を、極度にそのままの状態で記録していくことである。―― そして、それは、そのような方法でなければ、それを言語によって保存することも、他の人間に伝えることもできないような〈もの〉であるからである」(ポエム・ライブラリー2『私はこうして詩を作る』「抽象詩の場合」)。
・・・この詩(注・北園克衛の「夜の要素」という詩、そして、それを、高柳重信の上記の記号だけの句に置き換えて見る)も、こうした必然のために作られたものであって、もっと分かりやすくいえば、言葉(注・高柳重信のものは言葉というよりも記号)によって描かれた抽象画を鑑賞するような審美的用意をもって味わえば、それでよいのである。
・・・そして、そこには感得するものを、あえて制限したり強要するものは何もなく、また二段論法も三段論法も何もないのだから、一面これほど理解の容易な詩は他にないともいえるのである。
ここで、もう一つ、例を上げて置きたい。
記号説 北園克衛
★
白い食器
花
スプウン
春の午後三時
白い
白い
赤い
★
プリズム建築
白い動物
空間
★
青い旗
林檎と貴婦人
白い風景
★
花と楽器
白い窓
風
★
貝殻と花環
スリッパの少女
金糸鳥の熟れる汽船のある肖像
★
温室の少年
遠い月
白い花
白い
(以下略)
この克衛の詩について、詩人の黒田三郎の鑑賞文がある。
・・・この詩に何か深遠な意味を求めようとしても、それは全くの無駄である。また、特別の鑑賞の仕方もない。読者は自由によみ、自由に反応すればいい。読者が得た感覚から、何を想像しようと、勝手である。
作者は、何らかの経験を表現しようとしているのではない。逆に、作者が構成したことばから、読者が何か新鮮な経験を得ることを期待しているのである。
抽象絵画が流行し、ポスターやデパートの包紙まで、そういうデザインが氾濫している今日では、誰でも、そう驚かずにこの詩がよめるのではなかろうか。
しかし、この詩は三十五年前に刊行された詩集『白いアルバム』所収のものである。 一読して誰でも感ずるのは、色彩の配合のさわやかさであろう。『現代詩の鑑賞(草野心平篇)』(「教養文庫」・社会思想社刊)
(その二十九の二)
この一見西洋的なモダニズムの雰囲気を有している克衛の詩は、その実、日本古来の連歌・俳諧(連句)の横に連なる水平方向の流れ(「付け」と「転じ」)と非常に親近感を有していることが察知されるのである。この「横に連なる水平方向の流れ(「付け」と「転じ」)」とは、寺田寅彦の「連句モンタージュ」説(別記)と同じ考え方という理解で差し支えないであろう。
この「モンタージュ (montage)」と は、「映画用語で、視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法の事。元々はフランス語で「(機械の)組み立て」という意味。映像編集の基礎であるため、編集と同義で使われることも多い」ということになる。
この「モンタージュ」の一つ一つの「カット」(単一の映像)などで、掲出の克衛の「記号説」という詩を見ていくと、次のとおりの展開とも理解できるであろう。
(「モンタージュ」のカットなど) (「俳諧連句」の付け筋など)
★
白い食器 「白い食器」の映像 場(居所)
花 「花」の映像 場(植物・花)
スプウン 「スプウン」の映像 場(居所)
春の午後三時 テロップ 時節・時分
白い 「白い室内」の映像 色立
白い 「白い野外」の映像 色立
赤い 「赤い野外」の映像 色立
★
プリズム建築 「都会のブリズム建築」の映像 場(居所)
白い動物 「動物園の白い動物」の映像 場(動物)
空間 「都会の空間」の映像 場(居所)
★
青い旗 「都会の一角の青い旗」の映像 場(居所)
林檎と貴婦人 「室内の林檎と貴婦人」の映像 人事(植物・人倫)
白い風景 「白い野外の風景」の映像 場(山類)
★
花と楽器 「花と楽器」の映像 場(花・居所)
白い窓 「白い窓」の映像 場(居所)
風 「風」の映像 場(天象)
★
貝殻と花環 「貝殻と花環」の映像 場(水辺・花)
スリッパの少女 「スリッパの少女」の映像 人事(居所・人倫)
金糸鳥の熟れる汽船のある肖像 テロップ 場(居所)
★
温室の少年 「温室のある家の少年」の映像 人事(居所・人倫)
遠い月 「遠い月」の映像 場(月)
白い花 「白い花」の映像 場(花)
白い 「白い屋内・屋外」の映像 色立
(以下略)
これらの、(「モンタージュ」のカットなど) と(「俳諧連句」の付け筋など)とは、ほんのメモ程度のものであるが、この詩が収められている『白いアルバム』の詩集が刊行された、昭和四年(一九二九)当時の、そして、それは、この詩の作者の北園克衛が、二十八歳の頃(当時、独身の克衛は「下谷上三崎町に下宿」し、詩誌「海の晩餐」などを発行していた)、その詩誌の「海の晩餐」の、それらの、「ストリーのない、ただ、妙に、美しい、さわやかな、青春の憧れのようなもの」の映像が、走馬灯のように流れて行くのを覚える。
そして、おそらく、その詩誌「海の晩餐」などで、克衛らの若い詩人達が、当時のフランスの詩人達の、「ブルトン、ジャコブ、アポリネール」などのものや、イギリスのモダニズム運動の詩人の「エズラ・パウンド」らのものを、「あれかこれか」して、「記号説」なども、「あれかこれか」していたに違いない。
平成の時代の、このネットの世界で、当時の北園克衛の姿が、平出隆(稿)の「言語の消却・時間の消却 --- 北園克衛」などで見ることができる。
http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-hira.htm
・・・言語から離れること、ラインやスタンザ等、詩に固有ともいえる形式からも離れること、それをこの詩人は望んでいたらしい。ひとことで「詩の純粋形式の探究」といっていい、そうした直截な欲求を、一九二〇年代の詩的出発の時期から彼はいだいていた。ところでこうした欲求のあらわれとしては、広くはモダニズムという規格のうちにとらえられたとしても、未来派や立体派、表現派やダダあるいはシュルレアリスム等の国際的な諸運動・諸潮流に揉みしだかれながら結果するものであったのはいうまでもないだろう。という中で、この北園克衛という詩人が占めて来た足場、あらわしてきた欲求の特異さというのは、やはり奇妙にとらえにくいところがある。
少し年譜を辿ってみる。
1924年6月 「GE・GJMGJGAM・PRRR・GJMGEM」(ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム)創刊。
1927年11月 「薔薇・魔術・学説」の編集同人。
1928年1月 〈日本のシュウルレアリズムの宣言〉を上田敏雄、上田保と共同執筆。
11月 超現実主義機関誌「衣裳の太陽」に加わる。
1929年6月 第一詩集『白のアルバム』刊行。
1930年 「LE SURRÉALISME INTERNATIONAL」の同人となる。
ここで、どうしても特記して置きたいことは、寺田寅彦の「連句モンタージュ」説の原型ともいうべき「映画芸術」(昭和七年八月、日本文学)という論稿が、昭和七年(一九三二)に公表されているということなのである。詩人の北園克衛が、夏目漱石門下の寺田寅彦の、これらのものを目にしていたということではなく、克衛が、掲出の詩の詩集を刊行した
昭和四年(一九二九)、あるいは、寅彦が、「連句モンタージュ」説の「映画芸術」という論稿を公表した昭和七年(一九三二)当時というのは、チャップリンの時代で、映画の黄金時代でもあったのである。
ちなみに、ネットの世界では、昭和四年(一九二九)の「映画」の項目に、次のようなことが記されている。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1929.html
5月:【アカデミー賞】 [米]第1回アカデミー賞の授賞式。1927年~28年の作品を対象に行われた。作品賞は「つばさ」。チャップリンも特別賞に選ばれたが出席しなかった。授賞の晩餐会もささやかなものだったという。
(日本映画)
大学は出たけれど[松竹](4月封切)
<当時の世相を鋭く描き、題名も庶民感覚にピッタリで人気を呼んだ> ことば「大学は出たけれど」
[監督]小津安二郎、[出演]田中絹代、高田稔
東京行進曲[日活](5月31日封切)
[原作]菊池寛 主題歌
斬人斬馬剣
(外国映画)
女の一生[米]
これがロシアだ-カメラを持つ男[露]
こういうことに関連して、克衛の、「言語から離れること、ラインやスタンザ等、詩に固有ともいえる形式からも離れること、それをこの詩人は望んでいたらしい。ひとことで『詩の純粋形式の探究』といっていい、そうした直截な欲求を、一九二〇年代の詩的出発の時期から彼はいだいていた」ということは、当時の映像芸術と何らかの接点があるように思えてならないのである。
ここで、ネットの世界(「青空文庫」)で、寺田寅彦の「映画芸術」の論稿の全文が見られるので、そのアドレスと、その要点を抜粋して置きたい。
(その二十九の三)
(別記)
寺田寅彦の下記のアドレスの「映画芸術」上で展開された「連句モンタージュ説」の要点(抜粋)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2469_9349.html
(緒言) 略
(映画芸術の特異性)
・・・オペラが総合芸術だと言われた時代があった。しかし今日において最も総合的な芸術は映画の芸術である。絵画彫刻建築は空間的であるが時間的でなく、音楽は時間的であるが空間的でない。舞踊演劇楽劇は空間的で同時に時間的であるという点では映画と同様である。しからばこれらの在来の時空四次元的芸術と映画といかなる点でいかに相違するかという問題が起こって来る。
(映画の成立) 略
(映画の編集過程)
・・・たくさんな陰画(ネガチーヴ)の堆積(たいせき)の中から有効なものを選び出してそれをいかにつなぎ合わせるかがいわゆるモンタージュの仕事である。
・・・物語を「モンタージュ画像(ビルダー)」の言葉に翻訳しなければならない。この際における創作的過程は映画監督のそれとかなりまで類似した点をもつであろう。道成寺の場合にはまた、初期の映画で常套的(じょうとうてき)に行なわれた「追っ駆け」を基調とする構成の趣があると言われよう。
・・・絵巻物の一画面は言わば静的である。その静的な一画面から次の画面への推移のリズムによって始めてそこに動的な効果を生じる。しかし映画の場合でもたとえばドブジェンコの「大地」などはほとんど静的な画面のモンタージュが多い。有名な「ポチョムキン」の市街砲撃の場面で、石のライオンが立ち上がって哮吼(こうこう)するのでも、実は三か所で撮(と)った三つの石のライオンの組み合わせに過ぎないということである。
・・・私はかつて「思想」や「渋柿(しぶがき)」誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼はほんとうの連句については何事も知らないからであろう。
(映画と連句)
・・・あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。
・・・いわゆる発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているものである。しかしたとえば歌仙式(かせんしき)連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その「細胞」である。もちろんその一つ一つはそれぞれ一つの絵である。しかし単にそれらの絵が並んでいるというだけでは連句の運動感は生じない。芭蕉(ばしょう)が「たとえば哥仙(かせん)は三十六歩なり、一歩もあとに帰る心なく、行くにしたがい、心の改まるはただ先へ行く心なればなり。」と言っている、その力学的な「歩み」は一句から次の句への移動の過程にのみ存する。
・・・映画の光学的映像より成る一つ一つのショットに代わるものが、連句では実感的心像で構成された長句あるいは短句である。そうしてこれらの構成要素はそのモンタージュのリズムによってあるいは急にあるいはゆるやかなる波動を描いて行く、すなわち音楽的進行を生ずるのである。
・・・映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律にたとえらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との対位的結合によってそこに複雑な合成効果を生ずるのである。連句の場合でもまさにそのとおりで前句と付け句とは心像の連鎖のコントラプンクトとしてのみその存在価値を有するものである。
・・・このようにして連句の運動が進行するありさまはある度までたとえばソナタのごとき楽曲の構造に類する。この比較についてはかつて雑誌「渋柿(しぶがき)」誌上で細論したからここには略するが、それと全く同じことが映画の律動的編成についても言われるのである。そうして序破急と言いあるいは起承転結と称する東洋的モンタージュ手法がことごとく映画編集の律動的原理の中にその同型(ファクシミレ)を見いだすのである。
(映画と夢)
・・・映画と連句とが個々の二つの断片の連結のモンタージュにおいてほとんど全く同一であるにかかわらず、全体としての形態において著しい相違のあるのは、いわゆる筋が通っているのと通っていないのとの区別である。多くの映画は一通りは論理的につながったストーリーの筋道をもっているのに、連句歌仙(かせん)の三十六句はなんらそうした筋をもたないのである。
(前衛映画)
・・・映画を演劇や文学から解放して映画的な映画の天地を開拓しようとして起こされたいろいろの運動の試みがいわゆる前衛映画である。「アヴァンギァルドとは金にならぬ映画を作る人たちの仲間を言う」と揶揄(やゆ)した人がある。従来のこれらの試みは、すべてただ実験室的の意義しかないが、そういう意義においては尊重すべきものであるというふうに解釈されている。しかしそうばかりは言われないであろうと思われる。アメリカ人やドイツ人には到底理解されないものが東洋日本の大衆には理解され享楽されている例はいくらでもある。将来もしもここで言うような連句的な前衛映画が培養され発育しうる土地があるとすれば、それはおそらくわが日本のほかにはないであろうと思われる。そうしてそれはおそらくフランス人とロシア人にはいくぶんかは理解されるであろうと思われる。それにかかわらず現在においてこの方面を開拓しようとする運動の萌芽(ほうが)すらわが国のどこにも認められないのは残念なことである。
(抽象映画)
・・・スウェーデンの一画家がはじめた抽象映画は、幾何学的形象の運動の連鎖であって「動く装飾」と言われている。これは聴覚に関する音楽から類推して視覚的音楽を作ろうという意図から起こったものであろうが、これはおそらく誤った類推による失敗であろうと思われる。耳は音自身を聞き、しかもこれを無意識に分析しうる特殊の能力をもっている。しかし目はその映像の中に総合された実体とその内容とを見るものであって、特別な訓練なしにはその中から線や面を分析し抽出するようにできていない。これだけの根本的な感官的性能の差違を考えただけでも抽象映画なるものの価値は理解されるであろう。それで絵画におけるキュービズムやフュチュリズムの運命が、おそらくはこの種の映画の行く末を見せてくれるであろう。
(発声映画) 略
(有色映画) 略
(立体映画) 略
(人工映画) 略
(映画と国民性)
・・・和歌俳諧(はいかい)浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気(ふんいき)の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。
(その三十)
懐かしのわが家(寺山修司)
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽あたりのいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
寺山修司が亡くなる八ヶ月前に、朝日新聞(一九八二年九月一日付け)に掲載された、この詩については、先に(その十二)触れた。そこで、「スキャンダリズムの効用(扇田昭彦稿)」(「国文学」昭和五一・一)の、「彼はまず俳人であり、歌人であり、詩人であり、小説家であり、エッセイストである。さらに彼は放送作家、シナリオライターであり、劇作家、演出家、劇団主宰者、映画監督、競馬評論家、テレビタレント、全国家出少年身許引受け人であり、そのうえ『幻想写真館・犬神家の人々』というユニークな写真集を上梓した写真家でもある」ということにも触れた。
そして、これらのことと関連して、前回(その二十九)に触れた、昭和七年(一九三二)に公表された「映画芸術」という論稿の「映画と国民性」と題する、次の一節が、寺山修司とオーバーラップしたのである。
・・・和歌俳諧(はいかい)浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気(ふんいき)の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。
まさしく、昭和の異端児中の異端児の寺山修司は、夏目漱石門下の俊秀児中の俊秀児の寺田寅彦の「『日本的なる世界的映画』を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気(ふんいき)の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである」の、その「日本的なる世界的映画」の創造という領域にまで手を拡げたのである。
これらに関することについて、『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋すると次のとおりとなる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E5%8F%B8
1960年(昭和35年)2月第3作目のラジオ・ドラマ『大人狩り』が放送される。長編戯曲『血は立ったまま眠っている』が浅利慶太の「劇団四季」で上演される。篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。
1967年(昭和42年)1月1日演劇実験室・天井桟敷を結成。4月18日草月アートセンターで旗揚げ公演。演し物は『青森県のせむし男』。6月新宿末広亭で第二回公演『大山でぶ子の犯罪』。アートシアター新宿文化で第三回公演『毛皮のマリー』。3月評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。
1969年(昭和44年)西ドイツ(当時)フランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれて初の海外公演『毛皮のマリー』『犬神』。
1971年(昭和46年)『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出した。フランスのニースで作家ル・クレジオと二日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。フランスのナンシー市の演劇祭で公演『人力飛行機ソロモン』『邪宗門』。ベルリンのフォーラム・シアターで公演『邪宗門』。ベオグラード国際演劇祭でグランプリ『邪宗門』。
1974年(昭和49年)映画『田園に死す』が公開され、芸術祭奨励新人賞受賞
1982年(昭和57年)朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演『奴婢訓』
寺山修司が監督した映画は、「トマトケチャップ皇帝 オリジナル完全版(1996)・さらば箱舟(1984) ・草迷宮(1983) ・書見機(1977)・ボクサー(1977)・消ゴム(1977)・マルドロールの歌(1977) ・一寸法師を記述する試み(1977)・影の映画 二頭女(1977)・審判(1977)・田園に死す(1974)・書を捨てよ町へ出よう(1971)」の十二本を数えるのだが、その代表的なものは、上記の年譜(抜粋)にも記されているとおり、「書を捨てよ町へ出よう(1971)」と「田園に死す(1974)」の、この二本ということになろう。
そして、この原型となるものは、昭和三十九年(一九六四)の第三歌集『田園に死す』と昭和四十二年(一九六七)の評論集『書を捨てよ町へ出よう』ということになる。そして、この二つに共通するものは、寺山修司の終始変わらぬテーマでもあるのだが、昭和四十三年(一九六八)の『自叙伝らしくなく、誰か故郷を思わざる』の、その彼自身の「自叙伝」と、その「誰か故郷を思わざる」の、それらの「自己と故郷」との執拗なまでのこだわりということになろう。
修司自身の言葉ですると、その第三歌集『田園に死す』の「あとがき」で次のように告白しているのである。
・・・これは私の「記録」である。自分の原体験を立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う。もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない。
そして、これらのことは、冒頭に掲げた、寺山修司の最後の詩に、全てが盛られているのである。
・・・
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
・・・
―― 寺山修司は、昭和十年(一九三五)十二月十日、青森県大三沢市に、父寺山八郎、母セツの長男として生まれた。爾来、亡くなる、昭和五十八年(一九八三)五月四日まで、その五十年に満たない生涯(享年四十九歳)は、「あたかも、不完全な死体として生まれ、完全な死体になるための、そのアイデンティティー(私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのか)を求めての、その自分探しの漂泊の旅」であった ――
誰か故郷を想はざる(寺山修司)
〈汽笛〉
私は一九三五年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。
(中略)
〈戦争論〉
(前略) 私は、たぶん二度死ぬのである。はじめの死は、私にとって「死を生きる」ことであり、世界との水平線をべつべつにすることに他ならないが、二度目の死は万物の終焉なのである。
(中略)
「私は、一度目の死と二度目の死とのあいだは出来るだけ歴史が長い方がいいと思います」青森高等学校三年A組 寺山修司
(後略)
・・・
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽あたりのいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
・・・
―― そして、その漂泊の旅の終着点がはっきりと見えたとき、「青森県浦町字橋本の/小さな陽あたりのいい家の庭で/外に向かって育ちすぎた桜の木が/内部から成長をはじめるときが来たことを」を、はっきりと悟ることであろう。所詮、「人の一生というものは、時が来て枯死したとしても、その枯死した内部で新たな生を宿していると、新たな生が始まると、そんな思いがする」 ――
『花粉航海』(寺山修司句集)
彼は定住の地を見て良しとし、
その国を見て楽園とした。
彼はその肩を下げてにない、
奴隷となって追い使われる
ロバの木をぶどうの木につなぎ
その雌ロバの子を良きぶどうの木につなごう。 (『創世記』)
(十五歳)
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
『われに五月を』(寺山修司作品集)
五月の詩・序詩
きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎゆく時よ
ふり向けばすぐ海青し青春は頬をかすめて時過ぎてゆく
・・・
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
・・・
ロング・グッドバイ(寺山修司)
血があつい鉄道ならば
走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう
(中略)
ポー! はオーネット・コールマンの旋律を手に入れた!
ポー! はミュートも手に入れた (中略)
ポー!は血の中の水雷だ! (中略)
ポー! 私は髪を切る (中略)
ポー! 一日は一撃だ (中略)
(中略)
ポー!は トンネルを抜けて一泣き 田も畑もない一所不在の汽車一家!
(中略)
ポー! ポー! ポー! ポー! (中略)
(中略)
ともかく急げ! 汽笛がなりひびくからには時は今なのだ!
ポー!は遙かなる同志への連帯の合図 血と麦! そそり立つ肩ごしにふりむけば
見えるのだ一望のポー!の車庫! そうだ! いまこそ約束の時と場所にむかって
血があつい鉄道となる朝だ!
さあ A列車で行こう
それがだめなら走って行こう
一にぎりの灰の地平
かがやける世界の滅亡にむかって!
・・・
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
・・・
人力飛行機のための演説草案(寺山修司)
おれは自分を飛ばすことにばかり
熱中している一台のグライダーだった
(中略)
一メートル四方一時間国家は やがて二メートル四方二時間国家
三メートル四方三時間国家へと拡大してゆくだろう
(中略)
五百メートル四方五百時間国家は千時間国家 万時間国家へと幻想され
(中略)
おれは 国家の極限を飛ぶ一羽の大鳥 おれ自身を発見する
(中略)
そして
飛びたいと思う前からおれは両手をひろげていたのだ
(追記)
寺山修司の世界と映画
http://www.infoaomori.ne.jp/~sinohara/cinema2/kantoku7.htm
(前略)
彼の第三歌集「田園に死す」はこうした津軽の泥臭い生活や土俗的な信仰を身に纏って、寺山自身を歌った歌集であった。さいの河原の物語に形を借りた地獄めぐりである。それは故郷という地獄である。
兎追ふこともなかりき故里の銭湯地獄の壁の絵の山
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
夏蝶の屍ひそかにかくし来し本屋地獄の中の一冊
また、この歌集には「寺山セツの伝記」として母親を歌った十首の歌も歌われている。
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
亡き母の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ
子守唄義歯もて唄ひくれし母死して炉辺に義歯のこせり
ここでは母親を死なせ(殺し)ている。 不幸な少年がさらに不幸な虚構のなかに自分を追い込むことで心の傷を癒そうとしている。
この歌集のあとがきで彼は次のように書いている。
「これは私の「記録」である。自分の原体験を立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う。もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない。」
こうして語られた地獄めぐりが、さらに華麗なイメージの集積として映画「田園に死す」に移し替えられていく。 この映画は、母親から愛情の押し売りをされる少年が、その母親の呪縛から逃れようと様々に夢想する様子が幻想的なイメージの積み重ねのなかで描かれていく。荒涼たる田園に置かれた仏壇や鏡台といった古い家具類、また逆に家のなかで畳をはがすとそこには恐山があるといった映像。家の内と外のこうした倒錯したイメージ。
突然、川を流れてくる大きな雛壇。その意表を突いた詩的な映像。
黒い衣装を着て顔を白塗りした老婆たちが全員右目に黒い眼帯をして立っている映像の不気味さ。そして、主人公の少年も仮面を被ったような形の白塗りの顔で登場してくる。 この仮面劇を思わせる表情のない少年が荒涼とした恐山のなかに立つ姿は、深く自閉した孤独を感じさせて、悲しい。
彼は母親の愛情に絡め取られて社会との正常な関係が持てないでいる。
そんな母親からの逃亡を夢みており、憧れている隣の嫁さんとの逃避行を夢想したりするが、現実にはなにも果たせないでいる。
そして、時間が錯綜し、そうした過去の自分が現在の映画監督である私を深く悩ませる。 過去を美化するのか、現在を正当化するのか現在の私は思い悩む。
過去の少年と現在の映画監督の対立によって記憶の修正、再構築がなされていく。
ここには寺山が繰り返し引用するシュペングラー「西洋の没落」の一節「去りゆくいっさいのものは比喩にすぎない」という考えがいみじくも流れている。
映画「書を捨てよ町に出よう」に登場する私もいつも家を出ることを夢想する青年である。この映画では母親は亡くなっており、母親の一方的な愛情の押し売りからは自由であるが、かわりに万引き常習犯の祖母、のぞき常習者の父親、人間嫌いで兎を偏愛する妹という家族があり、ひたすらそこからの脱出を考えている。
そして、飛ぶことのない人力飛行機に乗って飛び立つことを夢想する。
人力飛行機の飛翔のイメージが繰り返し現れる。
「北国の暗い空、貧しい母子家庭、そして汽笛を聞くとこみ上げてくる『ここではないほかの土地』への憧れ」これは寺山が同郷の連続射殺犯、永山則夫について語った言葉である。それはそのまま寺山の心情に重なっており、他人事とは思えない永山に対する強いシンパシーを表している。
だが、結局はこの『ここではないほかの土地』にも裏切られることになるわけで、この引き裂かれた感情が寺山を永遠の逃亡者として規定することになる。
この人力飛行機の飛翔のイメージとともに寺山の作品で印象的に語られるイメージにこどもたちの「かくれんぼ」がある。
「誰か故郷を思わざる」のなかにも「かくれんぼ」についての記述がでてくる。
「母がベースキャンプに働きに出るようになってから、私はどういうものか『かくれんぼ』という遊びが好きになった。」
鬼になって目隠しをしてるうちに居眠りをしてしまい、眼が覚めたときはもう何年も時が過ぎており、目隠しをとると、隠れた子供たちがいつのまにか大人になっている。
背広を着たり、赤児を抱いたりして、子供の私を見て笑っているという幻想が現れてくる。
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭 「田園に死す・捨子海峡」
こうしたイメージに寺山はこだわり続ける。
打ち捨てられ、ひとりだけ置き去りにされた心さみしい孤独な自我の戸惑いの声が聞こえてくる。
寺山には、この「かくれんぼ」をして暗闇にじっと隠れ続ける少年のイメージがある。
そして、その暗闇から息をひそめてそーっと他人の人生をうかがっている。
いや、自分の人生さえも万華鏡やのぞきからくりを見るようにうかがっているのである。
彼は永遠に少年のままで生きようとしている。
こうした退行していくイメージは、あたかも恵まれなかった少年時代をもう一度取り戻そうとする作業のようにも見える。
人力飛行機によって飛び立ち、目指す「ここではない他の土地」とは幻想の少年の王国なのかも知れない。
結局、人力飛行機の着陸地点は彼がひたすら逃避しようとした場所にブーメランのように戻ってくることになるのである。
こうして自分さがしの旅が果てしのない地獄めぐりのように続いていくことになるが、その閉じられた世界をのぞきからくりとして見ることであるいは寺山修司は充足していたのかもしれない。